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子どもの偏食

今日のうちの保育園の昼食メニューは、ハムとチーズのサンドイッチ、ブロッコリ、りんご。部屋にはテーブルがふたつあって、それぞれ5人の子どもと保育者がひとり座る。私のテーブルに座った5人のうち、サンドイッチをそのままみんな食べる子はひとりで、あとは、パンだけ食べる子がふたりと、チーズがやたら好きな子と、ハムがやたら好きな子。その子達は、自分の好きなものを食べてしまうと、次々と新しいサンドイッチをほしがるのだけど、お皿には自分の食べないものが残ったままだから、いかにももったいない。

というわけで、全部食べる子を別にして、ひとつのサンドイッチのパンをふたりに、ハム、チーズをそれぞれ別の子にあげると、まるくおさまるので、おかわりはそういうふうにあげてしまった。「ハムを食べ終わるまで、次のはあげないよ」というやり方をする人もいるが、私は好きなものから食べてもいいんじゃないかな、と思っている。

小さな子どもの「偏食」は、アレルギーに対する身体の防衛反応である場合がある、と聞いたことがある。子どもは自分の身体によくないものを本能的に知っている、というのだ。だから無理強いしてはいけない、と。

いろいろなものを食べられたほうが楽しいと思うけれど、無理やり食べさせられても楽しくはないだろう。私のテーブルの子どもたちは誰もブロッコリに手をつけなかったので、美味しそうに食べてみせて、一緒に食べようよ、と促すと、とりあえず、一口は食べてみる、という子もいるが、更にほしがるほど好きな子はいなかった。もうひとつのテーブルでは、ブロッコリはすごい売れ行きだったのだけど。どんどん食べている子がいると、つられて食べてみる、みたいなことは、年齢が高くなるにつれて出てくるかもしれない。

そうしておかわりのサンドイッチは見事になくなり、サンドイッチのお皿が空になったのを見た子どもたちは、しかたなく、自分の皿に残った別のものを食べ始めたりした。もちろん、食べない子もいるわけだが。

好き嫌いをいえるのはぜいたく、という意見もあるかもしれない。保育園で、毎日、大量にでる残飯(今日はほとんど何も残らなかったけど。うちのテーブルのブロッコリはもうひとつのテーブルの子どもたちがみんな食べたので)に罪悪感を感じるのも事実だけど、やっぱり食事は楽しく!と思う。

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本「日本とアメリカ逆さの常識」by アントラム栢木利美

アメリカ人の夫としばらく日本に住んで、子どもが幼稚園と小学生になった頃、サンフランシスコに引っ越して暮らし始めた著者が、アメリカ社会と日本社会の違いを感じたことについて書いた本。私の場合は、単に、日本の米軍基地で一日のうち数時間を過ごすだけだけど、彼女の場合は、やはり暮らしているから、いろんなことに気づくものなんだなぁ、と思う。

この著者も書いていたことで、ひとつ、そうそう、と思ったのが予防注射のやり方。
日本では、予防注射は、ひとつ受けたら、しばらく日にちをあけて別の予防注射を受ける。仕事を持っている親にすれば、そのたびに休みをとらなければならないし、また、その日にかぎって子どもの調子が悪かったり、なんていうこともある。でも、アメリカの場合、たとえば1歳児検診などで、3つくらい一度に予防注射を受けてしまう。医学的に見て、これって平気なのかな、と思うけど...平気なのでしょうね、多分。もちろん、注射を受けてきた子どもがその日、ぐずぐず言ったり、というようなことは多少はあるにしても。ただ、副作用があった場合、どの注射によるものかわかりにくいのではないか、と思ったりするけど。副作用のことを心配する声をあまり聞いたことがないのは、軍にいるせいか、保育園にいるせいか(保育園に入園する以上、決められた予防注射を必ず受けなければいけないので。保育者も含めて!)、それともアメリカ社会に一般的な傾向なのか、わからないけど。

また医療費の高さについても。日本では子どもの基本的な予防注射は公的な機関が費用を負担してくれるが、アメリカでは自己負担らしい。ところが軍の家族は無料で医療が受けられる。アメリカ人が歯並びを気にするのは有名だが、軍の家族であれば、歯科矯正を受けることもできる。これは軍に入ることで得られる大きなメリットだ。

住居が提供される、医療が受けられる、教育が受けられる。そこに魅力を感じて軍に入る人たちがイラクに行くことになったりするわけだ...

この本の中でとりわけおもしろかったのは、彼女の家庭で夫と妻の伝統的な役割が逆転したことについて書かれていたことだ。アメリカに渡って1年目、彼女の夫は大学院に行くことになり、彼女が主な生計の担い手とならざるをえなくなった。航空会社のグラウンドホステス、日本の雑誌のライター、更に衛星放送のキャスターと3つの仕事をかけもちする彼女と、家事・育児を一手に引き受ける夫。子どもたちは夫になつき、夫と妻の思いがすれ違い、夫婦でカウンセリングを受けることになり...

普通の日本人女性の感性で書かれた本で読みやすい。1993年発行ということでちょっと古いけど、今もそれほど変わっていないのではないかと思う。

日本とアメリカ逆さの常識

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コミック「NHKにようこそ!」by 滝本竜彦&大岩ケンヂ

NHKってご存知でしょうか。日本放送協会ではありません。日本ひきこもり協会だそうで...

昨日、中1と中3の娘たちと出かけた時、電車の吊り広告に「NHKにようこそ」というのがあった。コミックらしかったので、彼女らに「あれ知ってる?」と訊いてみたところ、「知ってるよ」「わぁ、コミックになったんだ」「ほしい~」...というわけで、本屋に寄って買って帰る。

娘はふたりとも帰りの電車の中で読んでしまい、「おもしろいの?」と訊くと、「うーん、私は好きだよ」「でも、私は”ネガティブハッピーチェーンソーエッヂ”のほうが好きだけど。」
ネガティブハッピーチェーンソーエッヂ?...なんちゅうタイトルだ。
家に帰ってアマゾンで見てみると、ああ、確かにこの本は娘の部屋にあった。

今日、娘に貸してもらって「NHK...}を読んでみた。
大学を中退し、4年間ひきこもりをしている男性が主人公で、彼をひきこもりから救い出そうとする(?)高校生の女の子とか、たまたま彼のアパートの隣の部屋に越してきた彼の高校時代の後輩などとの関わりで、物語が進行していく。

中学生にはあんまり見てほしくないなぁ、と思うような絵もあったりして、私には入り込めない作品だったけど、こういう作品に彼女らがどうして惹かれるのかが気になって、アマゾンで感想を読んでいたら、娘がそばにやってきた。

母「ねぇ、この主人公に共感したりとかするわけ?」
娘「それはない」
母「じゃあ、何がおもしろいの?」
娘「うーん、展開が読めないところとか」

私がアマゾンで見ていたのは、原作のほうで、原作とコミックとは結構違っているらしい。コミックはまだ完結していないので、私はラストを知らないのだけど、「最後のおちもいい具合にきまっています」という感想に、娘は「ええ、そうかなぁ、私は拍子抜けしたけど」と言っていた。でも、「後味の悪い終わり方ではない」という感想に、「それはそう」とも言っていた。

「絶対に予想できないラスト」という感想もあったし、「展開がよめない」という娘の感想もなるほど、という感じはする。私には入り込めないけど、退屈な本ではない。ふたりともコミックと原作では原作のほうが好き、と言っていたので、原作のほうがおもしろいのかも。

「ひきこもり」について、共感はできなくても、理解はできる、というところはあるのかな、と思う。

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「華氏911」全米800館満員!

マイケル・ムーアの「華氏911」が全米で公開され、人気をよんでいるようだ。保守派の妨害工作がかえって人気を高める結果になっているわけで、監督としては「もっとやって」とでも言いたいところかな。

ブッシュ米政権を批判して世界的注目を集めているマイケル・ムーア監督(50)の新作映画「華氏911」が25日、全米800館以上で一斉公開された。初日はほぼ満員になり、1日の入場券売上高で過去最高を記録する映画館も多かった。

基地で上映されたらぜひ見に行きたいけど、きっと上映されないだろうなぁ...

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ビデオ「夏休みのレモネード」 Stolen Summer

とても好きな映画だった。

今度小学3年生になる男の子ピートは、カトリック系の学校に通っている。シスターから「神の道を行くか悪魔の道を行くか、今度の夏に決まる」と言われ、地獄行きにならないためにはどうしたらいいかと考えて、異教徒をカトリックに改宗させる、という方法を思いつく。

彼はユダヤ教徒を改宗させようとシナゴーグに行き、そこのラビから、天国の問題を考えるためにレモネードをシナゴーグの前で配ることについて許可をもらう。このラビ(ケビン・ポラック)がまた素敵な人で、少年の「探求」に対して、異教徒だから、と追い払うようなことをせず、彼にやりたいようにやらせてあげるのだ。

(以下ネタバレ)

ラビの家が火事になり、消防士であるピートの父親が、家に残されたラビの息子を救う。その息子ダニーは白血病で、どのくらい生きられるかわからない。ダニーはピートの一つ年下で、ピートは彼を改宗させようと考える。どうしたら天国へ行くことができるのか、子どもの頭で一所懸命考えて、子どもなりの方法を試してみる。

ユダヤ教のラビも素敵な人だったが、カトリック教会の神父もまた素敵な人で、ピートの質問に誠実に答えてあげる。まわりにそういう大人がいることはいいことだなぁ、と思う。

医者になるために大学へ行きたいと思っているピートの兄パトリックに対し、経済的余裕がないから、と市役所勤めをすすめる父親。この父親のわからずや加減にうんざりしたり、子どもだけで沖まで泳ぐ姿に「それは危なすぎる」と思ったり、親の目をぬすんで会いに来たダニーを簡単に追い返してしまうピートの姿にえ?と思ったり...というところはあるけれど、最終的にピートが自分で考えて出す結論ー結局、人は自分なりに神様を信じていればいいんだ、キリスト教もユダヤ教も関係ないんだ、というような考え方もとても好きだ。

ただ、私にとって、信仰というのは、やはりわからないものではある。
「どうしてダニーが天国にいるとわかるのか」と尋ねられて、ピートは信仰(faith)だと答えて笑う。
信仰とはそういうものなのだろう。証拠があるから信じるのではない。こうこうこうだから、と理屈で信じるのではない。でも、私にはそれができない...から、私は宗教的な信仰を持つことはできないのだけど、信仰を持っている人のことは、それはそれで尊重したいと思う。

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蜂!

beehunt.JPG植木職人をされている塩野さんの「今日も蜂の巣発見」という記事を読んで思い出したこと。

数年前、我が家のベランダに蜂の巣ができていたことがあった。小さな巣だったけど、やっぱりこわくて、市役所に相談したら、駆除用の防護服を貸してくれた。まるで宇宙服のようで、我が家では大受けだった。

保育園の園庭で、ごくたまにだが蜂を見かけることがあり、そんな時は本当にこわい。あっちへ行って、とお願いするしかない(^^;)。蜂の巣はさすがに見たことがないけれど。

でも、アメリカ人にとって、蜂はそれほど悪いイメージじゃないのじゃないかなぁ。
保育園の子供たちが好きな本に、Honeybee's Busy Day というのがある。厚紙でできた蜂がついていて、それが野原を飛んでいき、最後には巣に帰ってくる、というストーリー。ページに切り込みがあって、紙の蜂がそこに入るとその画面からは消え、次のページにいる、という仕組み。英語がまったくわからない子どもでも楽しめるので、興味のある方はどうぞ。

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ビデオ「ジョイ・ラック・クラブ」

中国で悲しい体験をした4人の女性がアメリカへ渡ってきて、そこで結婚し、子どもをもうけて暮らしていく。アメリカ生まれの子どもたちは親の世代と価値観が違うところもあるが、親の背負ってきた背景を理解しようとする。

中国での悲劇的な話が現実離れして感じられるところもあるが、あの国であの時代なら、ありえる話なのかもしれない。4組の親娘の話がわりと淡々と語られるだけなのだけど、私は結構好きな話だった。

西欧社会で暮らす、アジアなど違った文化を持つ人たちの話、というのは好きなのだけど、この間見た「ぼくの国、パパの国」(east is east) はあまり好きになれなかった。イギリス社会で暮らすパキスタン人一家の話で、イスラム社会のあり方に忠実であろうとする父親と、表面的にはそれに従いながら、心では反発を感じている子どもたちの様子を描いているのだが、私から見て、父親があまりに理不尽(今時、子どもの結婚相手を親が勝手に決めるとか)なので、寄り添う気持ちになれなかった。息子達のお見合いの相手を「美しくない人」として描いているのもいやだった。

それに比べると、この作品に親しみを覚えるのは、アジアの女性が主人公になっているせいかな。中国の人たちが、アメリカ社会で一定の成功をおさめ、豊かな暮らしをしていて、娘達もみんなきれいだ。親が子どもを思う気持ちは、親世代も娘世代も共通しているところがあり、また、親世代が娘世代になんとか自分の思いを伝えようとする姿勢も気持ちよかった。

(以下ネタバレ)

もちろん、我が子を殺めてしまう、とか、理解できない部分もあったけれど...

ジューンが、中国にいる双子の姉に会いに行くことを祝うパーティの席で、彼女は、亡くなった母の友人から、「母が亡くなったことはまだ彼女達には伝えていないのだ」と知らされる。友人はジューンにウソをついていたのだ。それってひどいよなぁ、と思ったところ、「あなたが伝えるのが一番いいのよ」なんて、友人はひらきなおる。その態度を見て、ああ、こういうの、ありそうだなぁ、と思ってしまった。

最後、ジューンが姉達と再会する場面は、ただ素直に、よかったな、と思えた...実際にそういうことがあったなら、おたがいどんな反応を示すことになるか想像がつかないけど、あんな感じなのかもしれない。

ストーリーとは関係ないが、DVDのルートメニューのポインターが麻雀の東牌なのも好きだった(^^)。

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氷遊び

梅雨にはいったと思ったら暑くなったり。ということで、保育園のわが1歳児クラスでは昨日この夏初めて大々的な水遊び。でもって、今日は室内では氷で遊んだ。

ice.jpgうちの保育園の隣には、ユースセンターといって児童館兼学童保育のような施設があり、そこで細かく砕いた氷を好きなだけもらってくることができる。今年は、暑くなり始めてから、たいてい主任の保育士さんが、朝もらってきて、教室のウォータークーラーに入れてくれていたので、今日は遊びに使うから、と多めにもらってきてくれるようお願いした。

スコップ、型抜き(ぬき型)、コップなど、砂場遊び用の道具を使って遊ぶ。サラサラの砂ではなく、ぬれた砂、あるいはどろんこ、あるいは雪で遊ぶ要領だ。型抜きに入れてひっくり返すと、ちゃんとその型になるし、おだんごを作ることもできる。ざくざくした冷たい感触も気持ちいい。子どもが口に入れたとしても水なので、心配いらない。というわけでとても楽しく遊ぶことができた。

この細かい氷が簡単に手に入ればとても楽しい遊びなのだけど、家庭用の氷かき器で大量に作るのはちょっと大変かな。電動のアイスクラッシャーは結構高価だし。スーパーなどで冷凍食品持ち帰り用の氷を提供しているところがあるが、なんらかの方法で細かい氷を手に入れることができるならば、ぜひ一度お試しください(^^)??

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おそろしい2歳

昨日の放送大学「乳幼児心理学」で、"terrible two"(おそろしい2歳)の話がでてきた。子どもの自律性の発達が主題で、だいたい1歳半くらいから、自分を強く主張し始める、という話だ。これはまったくもってそのとおり。子どもによって自己主張の激しさや始める時期の違いはあるけれど、だいたいそのくらいから、親や保育者の言うことを素直にきかなくなり、自分のやりたいようにやろうとする傾向が出てくる。"No!" と "Mine!" が特徴的な言葉で、この傾向がでてくると、ああ、この子も2歳になっていくんだなぁ、と思う。

放送でも言っていたとおり、アメリカでは terrible two と言われている。実際、「いやだー」と泣き出したら、泣き止まない頑固な2歳児とつきあうのは、ストレスのたまる仕事だ。2歳児クラスの園庭で大きな声で泣いている子どもをよく見かけるが、「私はやっぱり1歳児クラスのほうがいいな」なんて思ってしまう(^^;)。ちょうどトイレトレーニングの始まる時期でもあり、親の思いと子どもの状態がすんなりと一致しなくて、これまた強いストレスを感じることになる。

でも、言語能力の発達はめざましい。たいていの1歳児は単語を話す程度だが、そんな子どもたちも2歳児クラスに行くと、どんどん文の形で話せるようになっていく。2歳児クラスの子どもたちと話すのは楽しい。1歳児はなんでも口に入れてしまう子どもがまだ多いので、造形活動でも使える素材などが限られがちになるけれど、2歳になるとできる活動がふえていく。そういう意味ではおもしろいクラスだ。

アメリカでは、「terrible two ではなく、terrific two (すばらしい2歳)と考えましょう」と育児書などに書かれていたりする。でも、本音を言うなら、たまに話をするのはともかく、やはり日常的に2歳児とつきあうのはかなりエネルギーのいる所業だ。

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禁酒法の時代

放送大学「アメリカの歴史」は録画してもつい見るのが後回しになってしまったりしていたが、今日見た1920年代の合衆国というのは結構おもしろかった。

1919年から1933年まで、合衆国では、アルコール飲料の醸造、販売、輸送が禁止されていた。でも結局、それが守られることはなかった。もぐり酒場が繁盛し、アル・カポネなどのギャングが密造・密輸によって経済力を蓄えた。結局、法律で酒を禁止する、といっても無理な話なのだ。

でも、イスラム教国では、酒を飲まない人も多いのだと思う。法律は人間が決めたものだけど、宗教は神の言葉だから、人間の法には従わなくてもいいが、神の法には従わなければ、ということか。その国の国民であれば、法律には従う義務があるが、宗教を信じる義務はない。でも、人間を動かすのは、結局、義務感ではない、ということかな。まあ、イスラム教国で人々が酒を飲まないのは、純粋に神の言葉に従おうとしている、というよりも、やはりまわりの人がそれに従っている、というところが大きいのではないか、という気はするけれど。生まれた時から身近に酒がなければ、酒が飲めないことがそれほどつらいことにはならないのじゃないかな、と思う。

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本「バカの壁」 by 養老孟司

「話せばわかる」というのはウソだ、人間がわかりあえないのはどうしてか、について書かれた本だ、というような話を聞いて読んでみたい、と思った。すごく人気があるようで、図書館でリクエストしてから借りられるまで、数ヶ月待った。

で、私の疑問が解けたかというと...書いてあることのすべてがすんなりおちる、という感じの本ではなかった。著者が一番言いたいのは、結局、人間はまちがう存在だ、だから一元論的に物事を考えるな、正解はひとつではないのだ、ということ?これは著者が話したことを新潮社の編集部の人が文章化した本だそうで、結構話があちこちにとんで、だからわかりにくいところがあるのかもしれない。まあ、もともと、答えを求める、というのが無理な話なのだ、というのが著者の言いたいことなのかもしれない。

おもしろいと思ったのは、脳の一次方程式の話。
脳への入力を x 、出力を y とすると、y=ax という式が考えられる。a という係数は、著者は「現実の重み」と書いているが、脳の中にある、その事物への興味というようなもの、と考えればいいのかな、と思う。それは人によって非常に違っている。だから、同じ入力があっても出力が違ってくるのだ。a がプラスの値であれば、それに関する入力があった時には大きな反応が起こるし、a がマイナスの値であれば、それを避けようとする方向に反応が起こる。が、問題は a がほとんどゼロという場合だ、と著者はいう。その場合、入力があっても何の反応も起こらない。自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。これがたとえばひとつの「バカの壁」。

その説明はなるほど、と思うのだけど、教育批判や教師批判とかになると、うーんそうかなぁ、と思ってしまった。たとえば、「個性をのばせ、なんてたわごとだ」と言うんだけど、「回答はひとつじゃないよ」と言ってる著者の意見と矛盾するような。実は矛盾しないんだ、と言われたとしても、なんか言葉遊びの感じがしてしまって、どうでもいい気になる。

犯罪者の脳を調べよ、という主張についても、そのとおり、と私には言えない。キレる脳には特徴がある。衝動殺人犯の脳は前頭葉機能が落ちていた。つまりガマンがきかない。これに対し、連続殺人犯は前頭葉機能は普通だが、扁桃体という善悪の判断等にかかわる部分の活性が高い。そういう研究結果は確かに興味深いけど、そういう脳の特徴をもっているから必ず犯罪を犯す、というものでもないだろうし、検査結果がどのように扱われるかについては不安を感じる。このことは著者も述べてはいるのだけれど。

この本の中で紹介されていた三沢直子著「殺意をえがく子どもたち」というのは読んでみたい。子どもに「人間」「木」「家」の三つの絵を描かせたとき、1981年と1997年では明らかに違う傾向が見られたそうだ。

そんなにわかりやすい本でもないのに、こんなに人気があるのは、「話せばわかるなんてウソだ」と感じている人が多いっていうことかな。話してもわからない、通じない、というのは多分多くの人が経験していて、どうしてなんだ、どうにかならないのか、という思いがあるのだろう...そして始めのほうにも書いたけど、この本がその答えを与えてくれてるわけじゃない。脳の係数がゼロで関心がないのだから、話してもわからないのだ、といわれても、多くの人はそれで終わらせたくないと思っているだろう。だからなんとなく読後感もすっきりしないのだ...

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私はあなたの大ファンです

中3の娘の英語の教科書に "I'm a big fan of yours." という文を見つけて、「なんで yours なの?」と思ってしまった。中3の英語の教科書に載るくらいだから、すごく一般的な言い方なのだろうが、私は知らなかったのだ。今日、職場で聞いてみたら、やはり、yours が普通で、"I'm a big fan of you." というような言い方はしないのだという。
でも、"I'm a big fan of Tom Hanks." はいいんだそうだ。
"I'm a big fan of him." と "I'm a big fan of his." はどちらもオーケーで、でも、私がもしトム・ハンクスに会って "I'm a big fan of you." と言うと、英語としてはおかしな感じがするらしい。5人のアメリカ人に訊いてみたが、全員同じ答えで、でも、どうして you はおかしいのか、yours になるのか、ということについて、私にわかるように説明してくれた人はいなかった。yours っていうのは、つまり、あなたの作品とか、あなたの映画とか、そういうもののことで、と言うんだけど、「トム・ハンクスのファン」ということはよくて「あなたのファン」とは何故言えないのかがわからない。

言葉なんて、何故、と考えてもしかたなくて、そういうものだ、と覚えていくしかないものなんだろうけど。

外国人に日本語のことを質問されて、なるほど、わかりにくいなぁ、と思うこともある。
たとえば、「”先”っていうのは、前のことなのか、後のことなのか」と尋ねられたことがある。「先のことはわからない」といえば、未来のことだし、「先にこっちをやってから、次にそっちをやった。」と言えば、「先」のほうが時間的に早いことになる。まるで逆の意味になるようなことをどうして同じ言葉であらわすのか?どうやって区別するのか?と訊かれても、私にはうまく説明できなかった。

結局、外国語の完全な習得はむずかしい(^^;)...

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あまい問題

中1の娘は、初めての定期テストを明日にひかえ、ワクワクしているらしい(?)

中1「でも、先生はみんな、今回はあまい問題にしたって言ってるんだけど。
   ○○先生の話だと、コーヒーにおたまで砂糖を3杯入れたくらいあまいらしい。」
姉(中3)「カップ1杯のコーヒーににおたまで砂糖3杯?そんなの溶けないよ。」
母 「つまり、とけない問題っていうことじゃないの?」
中1「ええーっ!!!
   ....でも、おたまで1杯ずつ入れればとけるよね?」

オイオイ、そんなこと真剣に考えてないで勉強しなさいってば...

...と、これを昨夜アップしようとしたら、ココログにログインするのに
めちゃくちゃ時間がかかって結局できなかった(*_*)。
今朝、ふとんの中で本を読んでいた娘...きっと試験の準備は万端なのだろう(^^;)..

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自由と民主主義がお買い得!?

昨日の毎日新聞「東論西談」の記事は、本当にそうだなぁと思ったので、書いておきたい。

「自由な中東を」「中東に民主主義を」。サミット会場では米政府関係者が連日、米国流価値観のバーゲンセールを繰り広げた。...(中略)...テロリズムとの戦いを、自由と民主主義を世界中に広げる戦い、と単純に規定することに、ヨーロッパ人は危うさを感じている。それは米国の強さではなく、むしろ弱さ、焦燥感の裏返しでもあるからだ。...(中略)...誰も反対などしない「自由」や「民主主義」という理想を掲げ、あの戦争を正当化するのは、いかにも苦し紛れと映る。休まずこぎ続けないと、自転車は倒れてしまう。それと同じように、イラク戦争は間違っていなかったと信じ、テロの恐怖に打ち勝つには、自分たちの価値観の絶対的正しさを日々確認しないと不安でたまらない--。「自由」と「民主主義」は、余裕を失ったそんな米国人の、護摩札のようなものではないか。

放送大学「アメリカの歴史」で、イギリスの植民地政策に反対して独立したアメリカが、次第に他国の政治に干渉していく姿を見て、今と同じだなぁと感じてしまう。スペインの圧政に苦しむキューバを救わなければいけない。民主主義を知らない国にそれを教えていかなければならない。

当時、アメリカが領土を拡大し、帝国主義的になっていくことに反対した人たちもいるという。でも、今、「自由と民主主義」をもちだされたら、誰も反対なんてできない。だけど、それがアメリカの目的なのか、というと、それを本当に信じている人はどのくらいいるのだろう。信じたいと思っている人は多いだろうと思うけれど。

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映画「デイ・アフター・トゥモロー」

基地で映画を見ると、当然のことながら字幕がないので、微妙な会話が重要な意味を持つような映画はちょっと私にはきついけど、この映画なら大丈夫かな、と出かけていった。

で、これはやっぱり映画館で見る映画だなぁと(^^)。
パニック映画は何度も何度も作られているが、どうして人はそういう映画を見たくなるんだろうか。まわりのアメリカ人の反応を見ていて、ああそうなのか、と思ったのは、これは遊園地のアトラクションと同じなんだ、ということ。登場人物が危険な目にあい、なんとかそれを切り抜けていく。そこで「ほーっ」というため息がもれる。よくやるねぇ、という感じだ。映画の人物と自分をかさねあわせたり、映画の中に入り込んでしまう、というより、一歩ひいたところで映画を楽しんでいる。これは「映画」なのだ。現実ではないのだ。

遊園地のアトラクションは楽しい。南極の氷が割れるシーン、大水に襲われるニューヨーク、瞬時に凍っていく街...そういう映像を大きなスクリーンで見るのは、やっぱり映画の醍醐味。

(以下ネタバレ)

ひとつ、ここは日本人とアメリカ人で反応が違うのではないかな、と思ったシーンがある。
サム(ジェイク・ギレンホール)が、ニューヨークの図書館の水没した1階で父親のジャック(デニス・クエイド)に公衆電話をかける。水位がしだいに増していき、ジャックは頭の上まで水に浸かってしまうのだが、なんとかそこからはいだしてくる。ずぶぬれで震えている彼を、ローラが「私の体温で温めてあげる」と抱きしめるところで、「オーオー」「まったくねぇ」と、冷やかすような声があがった。「気分はどう?」と尋ねるローラに「ずっとよくなったよ」とにやにやしながら答えるサム。だから確かにクスリとさせられるような場面ではあるのだけど、日本なら冷やかすような声はあがらなかったのじゃないかなぁ。

「デイ・アフター・トゥモロー」の公式サイトの掲示板で、「映画の中で起こった数々の自然災害は、決して絵空事ではありません。母なる地球を私達が今後も破壊し続ければ、いずれ現実のものとなるでしょう。この映画は人類に対する警告なのです。」と書かれているが、この映画からアメリカ人がそういうメッセージを受け取ったようには思えない。これは「映画」で、自分達の生活とは違ったものだ。歩いて5分のところへ行くのにも車を使い、大量の食べ残しを捨てていく、そういう自分達のふだんの生活の仕方が、こんな映画の世界と結びつくとはまず感じていないだろう...
私自身の生活をふりかえってみても、決してえらそうなことは言えないのだけど...

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思いがけないお休み

レーガン元大統領の国葬が行われる6月11日は連邦の休日とする、とブッシュ大統領が宣言したというので、うちの保育園も休みになるのではないか、という噂が週明けに流れた。基地の学校や病院はお休みになるというし、軍も休みだろう。だったら...というわけだ。そこで、保育園は、「11日、保育は必要ですか」と、親にアンケートをとっていたが、結局、多くの親が「必要」と答えて、うちの保育園は通常どおりオープンする、ということになり、職員はみんながっかり。昨日は、「ねぇ、明日、みんなで”病気で休みます”って電話入れない?全員を解雇することなんてできっこないんだから。団結しなくちゃ。」なんて言ってる人までいたが、その彼女も今日はちゃんと出勤していた。

ところが、「保育が必要」と書いた親も、結局来なかったりで、うちのクラスも、私のランチタイムの10時までに来たのは、10人中4人だけ。というわけで「早く帰ってもいいよ」ということになり、お昼前に帰宅することができた。人の死を喜ぶわけではないが、思いがけないお休みは嬉しい(^^)。まあ、だからって何か有意義なことができた、というわけでもないのだけど(^^;)。

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本「極限の民族」 by 本多勝一

カナダエスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧民としばらく生活を共にして書かれたルポルタージュ。それぞれの実施時期は、1963年5月~6月、1964年1月~2月、1965年6月~7月、というから、かなり古い記録になるが、21世紀の今となっては、これらの人たちの生活もかなり変化しているらしく、この記録は貴重なものといえるようだ。

すごいのは、本当に寝食をともにしていることだ。カナダでは、カリブーの毛皮一枚をめくると地面、というようなエスキモーの雪洞式テントに住み、エスキモーと同じく、カリブーやアザラシなどの生肉を食べる。セイウチを解体して、その体内から出てきた貝まで食べてみているが、さすがにそのヒレの先についていたシラミは食べられなかったそうだ。ニューギニアでは主食はイモだが、こちらは下痢をしてしまって現地食主義は挫折してしまったらしい。それでも、「清潔云々」を言う人からは目をむかれるような調理法などで調理されたものをどんどん食べてみているのはすごい。また、エスキモーやニューギニアのモニ族の言葉など、少しでも勉強していっているのもすごい。実際、それでコミュニケーションしているのだから。

いろんな国の生活を経験してみたいと思うが、さすがにこの極限の民族の体験は自分ではできそうにないし、非常に興味深く読んだ。

おもしろかったエピソードは、ニューギニアの山越え。現地の人たちと一緒に行く時の信じられないようなスピードでの山登り、というのにもびっくりするが、彼らと別れてから道に迷ってしまった時の話は読んでいてドキドキした。ニューギニアというと暑い国、というイメージがあったが、高地はむしろ朝や夜などは寒いらしい。エスキモーの犬の扱い方、彼らに自殺が多い、というのも興味深い話だ。

アラビア遊牧民の話は、中国のシルクロードを旅した時のことを思い出し、他の2篇に比べると少しはイメージしやすかった。ただ、ベドウィンの人柄などは、やはり一緒に暮らしてみないとわからないものらしい。旅行者だったらずいぶん印象は違っていただろう、と書かれている。そして本多さんたちにとってベドウィンはかなりつきあいにくい人たちだったようだ。

エスキモーと共に生活したとき、私たちは「人間は、未開・文明を問わず、民族を問わず、結局同じものなんだ」という実感を強く覚えた。...(中略)...この実感は、ニューギニアのモニ族・ダニ族と生活したときも、強められこそすれ弱まりはしなかった。だが、ベドウィンはどうか。ここではエスキモーとは正反対に、「人間は、なんて違うものなんだろう」という実感を強く覚える。民族が違い、歴史が違うと、かくも相互理解が困難なのか。これこそ、本当に「異民族」なのだ。  私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、このような「つきあいにくい隣人」と世界を共にしている。世界は「異民族」の寄り集まりなのである。地球上には、おたがいに理解しにくい異民族がたくさんいる。この事実を無視して、一方的考え方で他民族に接する「大国」は、憎まれる。...(後略)(「本多勝一集第9巻 極限の民族」p.501)

相互理解が困難なのは、他民族間だけとは限らないが、確かに風土に規定されるその民族の気質のようなものもある気がする。違った文化、考え方を「おもしろい」と言っているレベルはいいが、一緒に暮らすなど、「つきあう」レベルになると、どこに妥協点を見出すかで、相手によってはかなりしんどい思いをすることになるものだろう...

職場で毎日接しているアメリカ人との間に、大きな考え方の違いを感じたりすることはそれほどないが、慣習の違いを感じることはある。そのことはまたそのうち書いてみたい。

B000JA9BBA極限の民族―カナダ・エスキモー,ニューギニア高地人,アラビア遊牧民 (1967年)
本多 勝一
朝日新聞社 1967

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コーヒーの香り

放送大学のスペイン語講座の録音に失敗したので(どうもFM放送の受信状態がよくない)、昨日、放送大学の学習センターに行ってきたのだが、月曜日は休みなのを忘れていた(^^;)。というわけで、今日また行ってきた。早番は3時半に仕事が終わる。なんだかんだで職場を出るのは15分くらい後になるが、学習センターまでは車で30分から40分の距離だ。ところが、今日から、センターに一番近いゲートが閉鎖になったため、更に10分くらい時間がかかることになってしまったが、やはり学習センターに行くと集中できるのはいい。

仕事を終わってすぐ急いで車をとばしていくので、着くとたいてい喉がかわいている。学生控室にウォータークーラーがあるので、控室のドアを開けると、ふわっとコーヒーの香りが漂う。それだけで幸せな気分になる(^^)。娘の中学に保護者会などでたまに行くと、職員室の前でコーヒーの香りがしてきたりして、ああいいなぁと思う。コーヒーの香りをかぐとリラックスした気分になる。アロマセラピーにはコーヒーの香りはなさそうだけれど、香りで癒される、というのはわかる気がする。

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「心の理論」と自己イメージの形成について

しばらく前、放送大学の「乳幼児心理学」で、「子どもは4歳頃から”心の理論”をもちはじめる」というような話が出てきて、子どもはもっと前から他者の心がわかる、というようなことを書いた(「パンダっておめでたくない動物なんだね、きっと」)。今日の講義でまたこの「心の理論」の話がでてきて、ああなるほどそういうことね、とわかったことがあったので書いておこうと思う。

「心の理論とは、他者の行動の背景にその行動とは異なる”心”がある、ということが分かることを指す」とテキストには書かれている。典型的には、他者が誤った信念を持っていることが理解できるかどうかということで、次のようなテストが用いられる。

わかりやすい説明をネット上で見つけたのでそこから引用する。(開かれた学問(58) 子どもの「心の理論」)

「マクシは、後で食べようとチョコレートを『緑』の戸棚にしまって遊びに出かけました。マクシがいない間にお母さんは『緑』の戸棚からチョコレートを出して使い、『青』の戸棚にしまいました。その後、マクシが遊びから帰ってきました」という物語を聞かせたあと、子どもに「マクシは、チョコレートがどこに入っていると思っていますか」と問います。  もちろん正解は、『緑』ですが、この実験を行ったヴィマーとパーナーによると、3歳の子どもの多くは、『青』の棚と答えてしまうようです。一方、4歳の子どものほとんどが『緑』の棚と答えられるようになります。...(中略) ...3歳の子どもたちは、マクシの心を仮定して、彼の立場では『緑』の戸棚にチョコレートがあると思うはずだということが理解できなかったわけです。その意味でまだ十分に「心の理論」が発達していないということができます。

なるほど。それをもって心の理論が成立している、というのなら、確かに1歳ではないだろう。でも、

ただ、4歳を「心の理論」の始まりと考えることについては、異論もあります。たとえば、「ふり」の理解のできる1歳半台から認める立場や、願望や信念などを手掛かりにして人の行為を推定できる3歳台に求める立場もあり、論争になっています。

とも書かれてあり、私の疑問ももっともだったのかな、と思った。

今日の話は、「自他についての理解の発達」で、ひとつには子どもが自分についてのイメージをどう形成していくか、ということ。まわりの人間に愛され、「おまえはすごい」と言われて育った子どもは自分について肯定的なイメージをもつことができるし、あまりかまってもらえなかったり、精神的肉体的な虐待を受けて育てば、自分についてのイメージは否定的なものとなる。これは本当だと思う。

アメリカの親達はいつも子どもに"I love you." と言い、抱きしめたりキスをしたり、と愛情を積極的に表現する人が多い。これは素敵なことだと思う。今は日本の親もそうなってきているのかな。どんな表現の仕方でも、子どもが親の愛情を疑うことなく感じられればいいのだと思う。自分を肯定的にとらえることのできる子どもがたくさん育ってほしい。

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仏教とキリスト教が仲良しに?

毎日新聞「オバさんの逆襲」に次のような記事が載っていた。

東京都目黒区にあるB幼稚園はキリスト教の幼稚園である。この4月から、しばらく園舎改築のため近くの仮園舎に転居しているのだが、その仮園舎というのは、何とお寺なのだ。お寺は宗教法人として税制で優遇されているから地域社会に尽くしたい。仏教だのキリスト教だのと堅い事を言わず、困ったときはお互いさま、という双方の合意。

うーん、なんか素敵な話(^^)。
仏教のほうは、いろんな思想を受け付ける素地があるような気がするけど、キリスト教のほうでこれを受け入れたっていいうのもいいな。まあ、仏教にもキリスト教にもいろいろあって、これはどちらもそれほど堅くない宗派だったのでしょうね。

うちの保育園は宗教色はない。いろんな民族の人がいるのだから、と、特別の宗教行事はやらないようにしている。クリスマスもおおっぴらには祝わない。クリスマス関連の行事をやりたければ、クラスの保護者全員から同意を得るように、ということになっている。とは言うものの、クリスマスはアメリカの祝日だし、たいてい、保育園の玄関にツリー(クリスマスツリーとよばないところがミソ(^^;))を飾るし、保護者からカードなどをもらうことも多いけれど。

今日は保育園の大掃除で朝から出勤。こんなお天気のいい土曜日にねぇ、とみんなブツブツ言いながらもせっせと掃除(まあ、おしゃべりのほうが多い人もいたけど)。でも、うちのクラスは結局、かたづけきれなかった...(X_X) 来週のお昼寝時間に子どもがよく寝てくれますように...(^^;)

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映画「ビッグ・フィッシュ」

いつも息子に自分の冒険談を語って聞かせていた父エドワード(アルバート・フィニー&ユアン・マクレガー)。子どものころは楽しくそれを聞いていた息子ウィルも、成長するにつれ、父の「ほら話」をうとましく思うようになる。そして彼の結婚式で「息子の生まれた日の(ありえない)話」をする父親に、ついに愛想をつかしてしまう。その後父親とは疎遠な状態が続いていたが、父が病の床についた、という知らせを聞いてウィルは実家へ。父に「ホラ話ではなく、本当の話が聞きたい」と頼むのだが...

何が本当で何がウソなのか。
映画を見終わった後でも、どこまでが本当のことなのかわからないような話だったりするのだが、それでいいのかな、という気がした。人生を豊かにするのは「本当のこと」とは限らないのだ。

私にとっては久々に映画館で見た作品で、「お伽話」的な映像も、大きなスクリーンで見るのが楽しいものだった。

(以下ネタバレ)

胸にジンとくるのは、やはり最後、息子が父の最期を父に語って聞かせる場面だ。
父は「自分の最期」を若い頃に魔女の目の中に見た、と言い、自分がどうして死ぬかを知っているから、それ以外のどんな危なそうな場面に出会っても、「これで死ぬわけじゃない」から大丈夫、と思っていられた、と話す。これっておもしろい設定だなぁと思う。
そして、実際には病院のベッドの上にいるのだが、息子のおかげで、「楽しい最期」を経験することになるのだ...

ダニー・デビートがいかにも彼らしい役でちょっと出ているのも私には嬉しいことだった。

ただ、「一目惚れ」というのを信じられない私は、そういう場面にはなかなか入っていけないのだけど...結局、自分の経験を超えたことはなかなか共感できないものだと思うのだけれど、お伽話にしてしまうことで、かえって共感できるものなのかもしれないと思う。

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女子中学生の会話

小6女子の殺人事件のことは「うちの子にかぎって」とは思うものの、やはり気になるので、今日、我が家のふたりの娘(中1と中3)に尋ねてみた。

母 「ねぇ、あの小6の子の話なんだけど、学校でそのことについて話したりした?」
中1「うん」
中3「ううん」
母 「(”中1”に)学校でっていうのは友達の間でその話がでたの?」
中1「先生が朝の会で言ってた。あのニュース知ってますかって。」
母 「で?」
中1「3人くらい知らない人がいた」
母 「で、そのことについてクラスで話し合ったの?」
中1「ううん」
中3 「話し合うほど時間ないよね」
母 「”中3”は? 友達の間でそのことが話題になったりしないの?」
中3「うん、別に...今日、女子はみんなで...ってみんなでもないけど、「こっくりさん」やってた」

...とここでひとしきり「こっくりさん」の話になり(今でも中学生は「こっくりさん」をやっているのか...と母は感慨にふける)、その後また

母 「で、君達、ネットで書き込みとかしてて、トラブルになったり議論になったりしたことはないの?」
ふたり「ない」「全然ない」
母  「不愉快な思いをしたことは?」
ふたり「ないよねー」
中3「”あらし”とかは完全無視してるし。」
母 「”あらし”とかあるわけ?」
中3「変な書き込みする人がいるとこもあるけど...シカトだよね」
中1「議論とかにもならないよ...たとえば、「○○君って超かっこいいよねー」とかっていう書き込みがきて、私は全然そう思わないけど「そうだね」ってさらっと書いて、で、もう次の話題に移ってくし」

うーん、どこでそんな処世術を身につけたんだろう(^^;)...

母  「悪口書かれたり、っていうようなこともないのね?」
中1「うん」
中3「2ちゃんねるは変な書き込みとかも多いみたいだけどね」
母 「2ちゃんねるとかも行くわけ?」
中3「うん、書かないけど。読むだけ。おもしろいスレはおもしろいよ。」
中1「私は書いたことあるよ。○○を使った料理を教えて下さい、っていうのがあったから、△△のレシピを...」

まあ、この調子なら、我が家に関しては、「うちの子にかぎって」と思っていてもよさそうだ。自分の子さえ大丈夫なら、というわけではないけど、この事件は本当に他人事とは思えなかったので確かめておきたかった。

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うちの子にかぎって

夜9時のニュースを見ていたら、小6の女の子が同級生を殺害した件について、加害者の子の親のコメントが紹介されていた。「普通に育った子。成績もよくしっかりしている。ただ、はっきりノーと言えないところがある。このような事件を起こして非常にショックだ。」...

きっと本当にごく普通の子どもなのだろう。ネットでの書き込みがトラブルの原因となったらしいと報じられているが、うちの中1と中3の娘達もそれぞれホームページを持ったり掲示板に書き込んだり、ということはやっているから、ちょっと心配になってしまう。我が家の娘達はふたりとも普通に育っていると思っているが、この加害者の子の親もそうだったのだろうから。うちの子にかぎって...

私は、子どもには子どものプライバシーがあると思っているから、彼女達のネットでのやりとりを事細かにチェックするようなことはしていない。我が家の場合、姉妹の会話を聞いていると、ある程度の様子はわかる。でも、もし、我が子が誰かを殺そうと思うほどにまで思いつめていたとしたら、何か変わった様子に気づかなかったのか、と言われそうだが...自信はない。もちろん、そんなことはありえない、と思っているけれど...

どうしてそんなに簡単に人を殺すことなんてできるのだろうか。
学校で命の尊さを教えていない?そんなことない。
私が小学校に勤めていた時は、例えば性教育は「命の教育」と位置づけて毎年取り組まれていた。自分が今ここに生まれてくるまでには親やまわりの人々のどんな思いがあったのか、などについて子ども達と話し合った。京都府は同和教育への取りくみも熱心で、命の尊さについては繰り返し話された。どこの学校でも同様の取り組みはしているだろう。

高校の先生をされている Cos さんが、心の教育と題して、「学校でできる心の教育なんて、限度がある。」と書かれているが、同感だ。何か問題が起こると、すぐに学校の教育姿勢などが問題になるが、学校が何もかもできるわけじゃない。

この加害者の女の子が命の重さを感じられなかったのは何故だろう。

たとえば、毎日のようにイラクで死んでいく人たちの報道に接していると、人間の命って軽いものに感じられてくるかもしれない...実際、そうなのだ...人間の命が虫けらのように扱われているという現実が、私たちや子ども達の感覚を麻痺させているところがあるのではないだろうか...

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野菜が食べたい!

中3の娘が昨夜、京都への2泊3日の修学旅行から帰ってきた。「どうだった?」と話を聞き、「で、食事は?おいしいもの食べた?」と尋ねると、「野菜が少なかった」という一言。約2週間前、中1の娘も清里への一泊学習から帰ってくるなり、「おかあさん、今日のごはん何?...野菜の多いメニューにして!」というリクエスト。我が家のふだんのメニューがそれほどすごく野菜が多いとは思わないけど、確かに外食だと野菜が少なくて私たちにはものたりないことがある。

旅行にでかけるとどうしても外食が多くなるが、外食でも野菜を食べるのに困らなかったのは中国。いろんな野菜が豊富で、毎日外食でも平気かな、という感じだった。イタリアでは、野菜が食べたくなるとビュッフェ形式のレストランに入って、メインディッシュよりも付け合せ野菜の皿をたくさんとって食べていた。大きなピーマンをオリーブオイルで炒めただけのものがとても美味しかったりした。

うちの保育園の食事は野菜が少ない、といつも思う。野菜はランチの時にたいてい一種類つくだけ。にんじんをゆでただけ、とか、ブロッコリーをゆでただけ、とか。コーンだけ、とか、さやインゲンだけ、だったりすると、「コーンって穀物でしょう?」「さやインゲンって豆でしょう?」と言いたくなったりする。職場でポットラックをすると、アメリカ人の持ってくるものは、ケーキなどの甘いものや、チキンなどの肉系が多く、野菜があるとするとサラダ。ヌードルやチャーハンなど野菜の入った料理を持ってくるのは、フィリピン人やタイ人などアジア系の人たちだ。

以前同室だった同僚で、夕食はたいてい外食かピザをとったりしてすまし、料理はほとんどしない、という人がいた。彼女の母親もそういう人だったそうだ。好き嫌いも多く、野菜もあまり食べない、という人だったけど、頭はよく、性格もいい人だった。私は、極端な偏食は性格に悪影響を与えるのでは、と漠然と思っていたけれど、彼女を知ってから「そんなことはないな」と思うようになった。

とはいうものの、私としては、給食メニューにもう少し野菜をふやしてほしいなぁ...

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