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デジカメ閑話

夕食を食べていると、同室の保育士Kから電話。

K:ミスじゃりんこ。元気?
私:元気よ。
K:ほんとに?
私:ほんとよ。どうして?
K:カメラ、落としたでしょう。

あ、と思った。全然気づいていなかった。部屋の床に落ちていたそうだ。
カメラはカシオの EX-S500
実は、このカメラを買ってまもなく調子が悪くなり、修理に出した(保証期間内なのでもちろん無料)のだが、そのとき、古いデジカメの EX-M2 も一緒に修理を依頼した。やはり私の使い方だとどうしてもカメラの調子は悪くなるのだと思い、ズーム機能のない EX-M2のほうが普段使いにはいいと思ったからだ。ところがこれが先週またこわれてしまって、まともに映像を表示しなくなった(--;)。というわけで EX-S500 を使っていたのだが、SDカードの出し入れをした際に、小さな部品がはずれてしまった。今のところ問題なく使えているのだけど、修理に出したほうがいいんだろうなぁ。でもそうするとまたしばらくカメラの使えない状況になるし、つい後回しにしてしまっている。

しかし、カメラを落としたことに気づかないなんて、そんな状態だから、カメラもいっそうこわれやすくなるわけだ(--;)。カメラはジーパンのポケットとか、エプロンのポケット、ジャケットのポケットなどに入れているのだけど、エプロンかジャケットをぬいだときに落としたのに気づかなかったのだろう。子どもが拾って渡してくれたこともある。

カシオは、衝撃に強いのが売りの時計や携帯を出していたと思うけど、私のような粗忽者のために衝撃に強いデジカメを売り出してほしい...なんて言っていないで、もうちょっと気をつけて丁寧に扱うようにしなければ(--;)。

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違和感

近々アメリカに帰ることになっっている同僚がふたり。そのうちのひとりが今週の土曜に日本を離れるので、その前にみんなでごはんを食べに行こうということになった。ふたりのひとりがうちのクラスの保母さんだったので私も行くことにした。

行ったのは基地の近くにある中華料理のレストラン。何人かが「にんにくとチキン入り炒飯」というようなメニューを注文した。それが運ばれてきたとき、ひとりが小皿に少しとりわけてくれたので、私も味見させてもらった。からっとあがったチキンのおいしい炒飯だった。ところが、それを食べた同僚のひとりが「にんにくが入ってないよ。」と言い出し、他の人も同意。にんにくの香りはきつくないが、確かににんにくの風味はしたし、私的にはこれくらいのほうがおいしい。しかし、彼は店の人に「これ、にんにくが全然入ってないよ。」と言い、店の人(多分中国人)が恐縮して皿をさげると、「僕のだけじゃなくて、彼のも、彼女のも入ってないよ。」と言い、結局、店の人はそのメニューのお皿を全部さげて別のテーブルに重ねてしまった。文句を言った彼は、それににんにくを加えて作り直してくれればいい、と思っていたようだが、店の人はまったく新しく作り直して持ってきた。それで多少はよくなったようだ。

運ばれてきたものが自分の想像していたものと違った場合、自分の思いをストレートに伝えるのが彼らの文化なのだろう。彼はまったく新しく作りなおすことを要求したわけじゃなく、にんにくを加えてほしかったのだ。でも、そういうふうに具体的に伝えずに、「にんにくが全然入ってないよ」"There's no garlic." と言っただけなので、店の人は「すみません」と謝って作り直した。はっきりと覚えていないけど、日本語のメニューでは「にんにく風味の鶏炒飯」で、英語だと "Fried rice with garlic and chicken" (にんにくとチキン入り炒飯)だったのかもしれない。「にんにく風味」と「にんにく入り」だと印象は変わる。でも、どちらにしても、にんにくを使っていないことはありえないのだから、「全然入ってないよ」と言われても「そんなことはありません。にんにくを使っています」と言うなり、料理人に確認するなりすればよかったのに。「横柄なアメリカ人と卑屈なアジア人」という構図に見えて、いやな気持ちになってしまった。

別の人は麻婆豆腐と棒棒鶏を注文していたのだが、どちらもなかなか来ない。待ちくたびれた頃、ようやく麻婆豆腐が運ばれてきたのだが、「どうしてサラダ(棒棒鶏は chicken salad with sesame sauce というようなメニュー名だった)がまだなのよ。サラダのほうが後だなんて信じられないわ。」と文句を言う。それを聞いたくだんの彼は、「彼らの文化ではそうじゃない(サラダが先とは限らない)んだよ。」と一言。そんなふうに文化の違いを考えられるのに、にんにくの香りは感じられないんだなぁ。どうして「入っていない」と言い切れるんだろう。こちらの文化ではそんなに多量に使わないものなんだ、というふうには考えられないんだろう。

自分の思いをストレートに伝えることは悪いことじゃないと思うし、私は個人的には好きだけれど、今日のような態度にはどうしても違和感を感じてしまう。捨てられてしまう炒飯を見るのはなんとも後味の悪いものだ。

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ピアノ発表会

今日は次女のピアノ発表会だった。次女の出番は12時半頃だろうというので、休憩時間をそれに合わせて取り、12時20分に会場に着いた時にはすでに彼女の出番は終わっていた。がっかり(:_;)。

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次女は小学校3年生の冬から習字を習い始めた。その年の正月、学校の書初めの宿題、書いた半紙を重ねてしまってぐちゃぐちゃにしてしまったことを覚えている。友達が習っているから、というような単純な理由で習い始め、はたして習って字がうまくなるものなのか、と思っていたのだが、どうしてどうしてなかなかの字を書くようになった。なぜか習字をしている時が好きだそうで、中学に入っても続けていたが、この春中3になるにあたってさすがに時間のやりくりをつけるのはむずかしいと判断したらしく、やめることにした。

その習字教室では、最後に色紙に何かを書いて残すのが恒例になっているらしい。何と書こうか、としばらく前から思案していた。

次女:ほんとは「夏炉冬扇」とか書きたいんだけど。やっぱり漢字一文字がいいな。
次女:...「空」っていうのはどうかな。
長女:いいんじゃない。「くう」とも読むし、なんかかっこいいよね。
母:整理整頓の「整」にすれば?
次女:いやみかよ?
母:いやみだよ。

...といった調子で、他に「遊」「柔」「響」「歩」...など、もう忘れてしまったが、たくさんの候補があがっていた。

そして結局彼女の書いた字は「今」。

過去も未来も大切だけど、今。
「今日」がいつも一番ステキな日であるといい(^^)。

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映画「南極物語」Eight Below

私は見ていないが、日本版「南極物語」をリメイクしたものだということで、話の大筋はわかっている。それでも映画にする価値のある作品というのはあるものだ。

どこまでも白い平原が続く。そりを引く犬達が小さく見えて、その広大さを感じさせる。真っ青な空に聳え立つ山。うそのように美しい星。オーロラ...
何かトラブルが起きることは知っていても、すっかりそれにはめられてのせられてしまう。

犬があんなに賢い動物だとは知らなかった。実際、犬同士、あるいは犬から人間へ、どの程度コミュニケーションできるものなんだろう。あれはやっぱり映画のうえのことなんだろうか。それにしても犬達の演技には恐れ入る。最後のクレジットで、犬の役名の横に、だいたい一頭につき二頭の犬の名前が書かれていたようだから、交替で演技していたわけなのか。

美しく厳しい自然と、賢い犬達のサバイバル、さらにそれに関わる様々な人間の思いがうまく描かれていて、いかにもディズニー映画。で、私はこういう作品は大好き(^^)。

映画館を出ると、明るい春の日差しのなか。桜もちらほら咲いている。この映画のせいで、すっかり寒い季節のなかにいる気分だったのだ。

日本版も見てみたい。

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ビデオ「おわらない物語 アビバの場合」Palindromes

主人公アビバを肌の色や体格、性別さえも異なる8人が演じるという実験的な映画。性別が異なる人が演じていたというのは、言われるまで気づかなかった(というか、言われても「誰だったの?」という感じ)のだが、確かに、肌の色や体格がまるで違っていても、それがアビバであるという設定で見ることはできる。

監督のトッド・ソロンズは、「ある人物に対してどのくらい共感できるかに関して、その人物の性別や年齢、人種というものは関係がない。人々が外見によってもつイメージを崩したかった。」と言っているそうだ。そのことは成功していると思う。

ただ、あくまで実験的な映画なので、映画のなかにのめりこんでしまう、というようなことはなく、「映画を見ている」醒めた自分がいる。扱っているテーマも興味深いけど、日本に住んでいる私には極端な例に感じられて現実感に乏しい。退屈はしないし、こういう映画もおもしろいとは思う。DVDに監督のインタビューが収録されていて、それを見ると、ああなるほどそういうことなのか、という感じで、私のような者には解説つきでないと理解しにくい。

赤ちゃんがほしいと願う12歳の少女アビバは、両親の友人の息子と関係を持ち、妊娠する。驚いた両親は娘に無理やり中絶をさせ、その結果、アビバは子どもの産めない体になってしまうが、そのことはアビバには知らされない。彼女は赤ちゃんを持つことをあきらめきれず、家出して男性と性交渉をもったりするが、愛のある関係は得られない。やがて、ママ・サンシャインと出会う。そこでは、様々な事情や問題を抱えた子ども達が楽しく暮らしていて、アビバも自分の居場所を見つけたような気持ちになるのだが...

(以下ネタバレ)

DVDに収録されていたインタビューで、監督は「アビバの家族は中絶の権利を主張する一方、娘の意見は尊重しない。サンシャイン・ホームは中絶反対派だが殺人を企てる。」というようなことを言っていた。このサンシャインホームの立場というのがいまいちよくわからなかった。中絶反対を言うくらい人の命を重く見ているはずなのに、中絶をする医者は殺されて当然なのか。売春は決して許されないこと、としているのもヘンな感じだった。監督としてはどちらの立場でもないのだろうか。確かにどちらも両極端で、そのおかしさを描いているのかもしれない。「人は変わるというが変わることはないのだ」という主張は、さてどうだろう。私は変わると思うけれど...

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雪の富山


久しぶりに富山へ。雨模様の羽田を発つと、雲の上は晴れ。到着した富山も雨模様だったけど、そのうち雪に変わる。この冬の雪はやはりすごかったらしい。060319_1703.jpg

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Three Little Birds

保育園で聞いているCDに "World Playground" (世界の遊び場)というのがある。アフリカ、ヨーロッパ、中南米などいろいろなところの音楽を集めていて、聞いていて楽しい。うちのクラスでは、タンバリンや鈴などの楽器を持って、鳴らしながら踊る。リズム感のいい子どもは、1歳でもちゃんと拍打ちができたりするのにびっくりする。

この中に "Three Little Birds" (3羽の小鳥)という曲があって、これが私の最近のお気に入り。"Three Little Birds" で検索すると、ボブ・マーリーの曲とされていることが多いけど、このCDで歌っているのは、ボブ・マーリーのおかあさんのセデラ・マーリー。

「心配しないで。何もかもうまくいくから。」という歌詞がレゲエのリズムにのって繰り返される。何の根拠もなくそういわれるだけなのだけど、そうだよなぁ、なんて思ってしまうのは一種の宗教??

歌詞はこちら。試聴もできます。

World Playground: A Musical Adventure for KidsWorld Playground: A Musical Adventure for Kids
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本「イスラム世界のこれが常識」(改訂版)by 岡倉徹志

ムハンマドの風刺画問題などで、やはりイスラム教のことをもう少し知りたいな、と思っていたら、図書館でこの本を見つけたので借りてきた。内容は、「イスラム世界の信仰がはっきり分かる」以下、イスラム世界の「風習」「歴史」「政治」「原理主義」について全部で55問のQ&Aの形式で書かれている。

たとえば「偶像崇拝が禁止されているのはなぜですか?」という問いがある。これに対する答えを要約すると、「アッラーは唯一絶対なる神であって、ならぶ者なき御神」であるから、ほかの邪神と一緒にしてはならない。「アッラーは御自分が他の(偶像)と一緒にならべられたら絶対にお赦しにはならない。」とコーランに書かれている。神はアッラー以外になく、信徒が崇拝しなければならないのは、この神だけである...から、ということになるのだと思う。「アッラーとはどんな神様なのですか?」という問いには、「アッラーは子もなく親もない存在で、姿、形、色もない」とされていること、天地創造のずっと以前から存在し、未来永劫にわたって存在し続ける、天地万物の創造主であることなどが書かれている。

イエスを神の子として崇めたり、聖母マリアの像や十字架などを崇拝の対象にしているキリスト教は堕落した宗教である、など、キリスト教やユダヤ教との違いについても述べられている。ムハンマドは神の子などではなく、あくまでも人間であり、その生涯も興味深い。歴史の章はややごちゃごちゃしていて読みにくいが、イスラム教が「コーランか剣か」というような広め方をしたわけではなく、人頭税さえ払えばもともとあった宗教を認めるようなやり方をとってきたことなどについても述べられている。また、ウサマ・ビン・ラディンがどうしてアメリカを敵と考えるようになっていったのか、ということについても述べられている。

イスラム教についての手軽な入門書ではあるけれど、読んでみてもわからないものはやっぱりわからない。唯一絶対の神アッラーと邪神を並べてはいけない、という考えから偶像崇拝が禁止されているとしても、ムハンマドの肖像を描くことも許されないのか。それが崇拝の対象になってしまう可能性があるからだろうか?ホメイニ師の写真を掲げるのはかまわないのだろうか?「悪魔の詩」がイスラム教を冒涜するような内容であったことからイスラム教の人たちが怒るのは当然だとしても、だから作者や訳者は殺されるべきだろうか?米軍やイスラエル軍の攻撃により無実のイスラム教徒がたくさん殺されたのに国際社会は一部を除いて米軍の殺戮行為を黙認してきた。だからといって「イスラム教徒は、アメリカ人なら、軍人であれ民間人であれ、無差別的に殺害の対象にすべし」というファトワー(権威あるイスラム法学者の意見)が正しいとは思えない。

唯一神しか認めない、ということは、他の宗教の存在を認めないということなのか?他の宗教を信じる人たちとこの世界で共存することは可能なんだろうか?

谷川俊太郎作詞の「信じる」という歌がある。「信じることに理由はいらない」と歌われているのだけど、なんでもかんでも信じられるわけではない。納得できる理由がないのならば、少なくとも「これは信じられる」という直感が必要だ。神の存在を信じる人は、何かそれを感じるような経験をしたのだろうか。神が存在しないとは思わないけれど、「アッラーが唯一絶対の神である」と「信じる」ことは私にはむずかしい。でも、きっと「信じる」とはそういうことなのだ。納得して、こうこうこういう理由だから、と信じるのではなく、見たことがあるから理解できるから信じるのではなく、無条件に信じることが期待されている。そしてそれは私にはむずかしい。

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映画「かもめ食堂」

「イノセントボイス」を見に行ったとき、「かもめ食堂」の予告編を見た。日本の映画なのに全編フィンランドで撮られた、ということと、出演している役者さんがおもしろそうで、見てみたいな、と思っていたら、試写会があるとのこと。で、応募したら当選(^^)。昨日、見に行ってきた。

サチエ(小林聡美)がフィンランドのヘルシンキに小さな食堂を開いて一ヶ月。毎日、店をきれいに掃除して準備を整えているけれど、客足はさっぱり。初めてやってきたお客は日本の漫画オタク青年トンミ。彼にガッチャマンの歌詞を尋ねられたが、思い出せない。気になってしかたなかったサチエはあるカフェでみどり(片桐はいり)を見かけて、尋ねる。「ガッチャマンの歌詞、知りませんか?」

...と、こういう具合に、話は唐突に展開する。そもそもどうしてフィンランド?どうして女ひとりで?と思ってしまうけど、「たったいま思いついたこじつけ」程度の理由しか示されない。かもめ食堂には結局、3人の日本人がかかわり、そして地元の人との交流が少しあって、私たちのふだんの生活と同じように、ちょっとしたエピソードがあって、そして多分これからもこんな感じで続いていく。すごくドラマチックな展開があるわけじゃないし、ありえないよなーと思うような話の進み方だったりもするのだけど、間のとり方が絶妙で、思わず笑ってしまう場面がたくさん。

なんといっても、登場人物がみんな個性的で魅力的。とりわけ、サチエを演じている小林聡美はいいなぁ、と思った。女ひとりでフィンランドに食堂を開くなんて、なかなかできることじゃないと思うのだけど、全然気負っているところがない。客が来なくても気にしない。理想を高く掲げて決して信念を曲げない...というわけじゃないけど、つっぱらない程度に自分なりのこだわりを持っている。そしてやっぱり、「いらっしゃい」というときの笑顔(^^)。

森のある国フィンランドに行ってみたくなる、そして、気の置けない仲間とおいしいごはんを食べることってやっぱり素敵なことだなぁと再確認する、そんな映画だった。

(以下ネタバレ)

「コーヒーは誰かに淹れてもらうほうがおいしい」
「おにぎりは誰かに作ってもらうほうがおいしい」
結局そういうことなのかもしれないなぁ、と思う。

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試写会

映画試写会というものに初めて参加した。映画を見たあとブログに感想をアップする、というのが条件で、映画はただで見られるし、いくらかの原稿料までいただけるというおいしい話(^_^)。
映画美学校の試写室はすぐ後ろに映写機が見えて、映画館とはまた違う雰囲気。映画もどこかとぼけた味わいがあって、よく笑い声が起こった。喜劇はわざと混んでいる時間に見にいく、という人がいたけど、なるほどなあという感じ(^_^)。感想は近いうちにアップします。

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映画「ミュンヘン」

1972年、ミュンヘンオリンピックの開催中にイスラエル選手団がパレスチナゲリラによって拉致され、殺害された。これに激怒したイスラエル政府は、諜報機関モサドのメンバーによってこの首謀者ら11人を暗殺することを決め、アブナー(エリック・バナ)がそのリーダーに任命される。アブナーには出産をひかえた妻がいたが、彼女と簡単に連絡をとることすらできない、危険な任務だ。しかし、彼は任務を引き受けることを決め、文書偽造のプロ、爆弾製造のプロなど、他の4人のメンバーとともに、行動を開始する。

見終わった後、沈痛な気持ちになる映画だけれど、私は監督の伝えたかったメッセージを感じた。イスラエル総領事館はこの映画について、「イスラエルの秘密情報機関モサドとテロリストを比較することにより、誤った道徳的なメッセージを与える恐れがある」と非難した 、ということだが、実際、それを峻別することにどれほどの意味があるのだろうか。

初めて人を殺すときに逡巡する気持ち。たとえ相手がテロリストであっても。しかし、回を重ねるうちに感覚が麻痺していく。殺す側にも殺される側にもそれぞれの個人的な生活がある。殺された者の仲間は殺した者への憎しみを募らせ、殺した側は今度は自分が標的となり、憎しみの連鎖が止まることはない。殺しを行なった者は、もはや心安らぐ生活を送ることはできないのだ...

重い映画だけど、映画館で見ることができてよかった。

(以下ネタバレ)

アブナーが家に電話をして、子どもの声を聞かせてほしい、と頼む場面がある。妻が赤ちゃんに受話器を向けると、彼女が「ダダ」(パパ)という声を発し、アブナーは思わず顔をくしゃくしゃにして涙ぐむ。ここでは私ももらい泣きしてしまった。

料理の得意なアブナーがキッチンのショールームを見ている場面が何度か出てくる。幸せな家庭生活を送りたいだけなのだ、多分、ほとんどの人は。

アテネの隠れ家で他の組織と鉢合わせしたアブナーたち。アブナーはユダヤ人であることを伏せてPLOのメンバーと会話する。あるいは、ターゲットの泊まっているホテルの部屋の隣に部屋をとり、バルコニーから彼の様子を監視していたとき、ターゲットが出てきて、世間話をする。こうやって「敵」側の人間と直接コンタクトをするときのアブナーに、敵への憎しみはほとんど感じられない。彼が憎しみをあらわにしたのは、仲間を殺した女に復讐に来たときだ。うだうだ考えず、任務だから殺す。アブナーのやり方はビジネスライクだ。多分、パレスチナゲリラ側のほうが、アブナーが女を殺したときに感じていたような怒りをもっている場合が多いのだろう。

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保育ママ(ホームデイケア)

同僚のMが保育園をやめて、保育ママになるという。彼女には2歳と5歳の子どもがいて、ふたりともうちの保育園に通っている。その保育料を払うと、彼女がフルタイムで働いても手元にはあまり残らない。彼女が保育ママになると、自分の子どもを見ながら他の子どもを見ることもできて、収入も得られるし、というのだ。自分の子どもと一緒に他の子を預かることもできる、というのが日本の保育ママさんとの違いじゃないかなぁと思う。

同室の保育士Nは、以前、保育ママさんをしていた。ただ、自分のふたりめの子どもが生まれて、やはり赤ちゃんを見ながら大きな子ども達を見るのは大変で、保育園に勤めることにしたのだそうだ。現在、上の子が2歳児クラスにいて、下の子どもは友人に預けている。

Nの話によると、保育ママは数日間の研修を受けて資格をとり、家も子どもにとって安全な環境であるようにしなければならない。年齢に関わりなく、6人まで子どもを預かることができる。自分の子どもも一緒に見ていいが、そのぶん、預かることのできる子どもの数は減る。

保育園に勤めていると、休憩時間があって休みをとることができるし、食事の支度や食器の後片付けは別の人がやってくれる。必要があれば、有休をとることもできる。保育ママだと、長時間働かなくちゃならないし、いろんなことを全部自分でやらなければならないから大変じゃないの、と訊いたら、「普通の母親と同じよ。自分の子どもと一緒にいられるからいいわよ。」と言う。彼女はもう少しすればアメリカに帰るのだが、落ち着いたらまた保育ママをやりたいと言う。彼女が保育園で働くより保育ママのほうが好きなわけは、

保育ママのほうが保育園より少人数だから、子どもも落ち着いていることが多い。頼まれた子どもを預かってみて、この子は無理だと思ったら断ることができる。けがをした、とか、噛んだ、とか、そういった事故も一般的に保育園より少ないと思う。親との関係も、保育園より親密になっていい。

といったところだそう。確かに個人的なつきあいになるので、もっとおたがい人間らしい気配りができていいかもしれない。

日本の保育ママさんは、うちの自治体だと、就学前の子どもがいる場合はできない。多分、ほとんどの自治体でそうだと思う。やはり自分の子と他の子とを対等には扱えないだろう、と思うからだろうか。私は子育てと仕事の両立ができなくて仕事をやめたけど、自分の子どもと一緒に誰かの子どもを預かることができればいいなぁ、と思ったことがある。6人も預かるのはむずかしいと思うけど、自分の子と同じくらいの年の子どもをひとりかふたり預かることができれば、子どもどおしにとってもいいかな、と思ったのだ。預けるほうも、同じくらいの年の子がいる、資格を持っている人に預けるのは抵抗がないんじゃないかと思うのだけど。もちろん、それがいやな人はそういう保育ママさんを選ばなければいいわけで、自治体のほうで、「就学前の子どもを持っている人はだめ」と規定してしまうことはないような気がする。

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ビデオ「コーラス」

問題児たちが音楽を通じて再生していく、というのはよくある話。「ミュージック・オブ・ハート」とか「スクール・オブ・ロック」とか。「コーラス」も、問題児をたくさん抱えた寄宿学校に赴任してきた音楽の先生の話だ。

あんなに収拾のつかない子ども達が、あっというまに、美しいコーラスを奏でるようになる、というのは、どうしても現実味に乏しい。ただ、この音楽の先生は魅力的だった。正義のかたまり、というわけじゃなく、子どもの母親に下心を持って接したり、問題児を完全に守ってやれなかったり、そういう弱さを持ちながら、でも、子どもに対する接し方に愛がある。そして、音楽には力がある、というのも本当だと思う。最後のほうでは涙してしまった。

(以下ネタバレ)

マチュー先生が学校を追い出されることになったが、子ども達は校長の罰を恐れて、挨拶に来ることができない。ひとりさみしく学校を去る先生のところへ紙飛行機が落ちてくる。次々と。そして子ども達の歌声。ひとつひとつの紙飛行機には子ども達からのメッセージが書かれていた...窓から振られる手、手、手。これはやっぱり泣いてしまうなぁ...

でも、どうして全部拾わないんだろう、と思ってしまったけど(^^;)。

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