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映画 「母たちの村」 Moolaadé

アフリカの多くの国で現在も行われているFGM (女性性器切除)という慣習。「女子割礼」と聞くと、一般的に行われている男性の割礼と同様、それほど身体へのダメージはないものなのだろう、と想像されるが、現実には大きな後遺症を残したり、最悪死に至る場合もある、というようなものだという。くわしくはこちら

私はこういう慣習が存在するということを知ったときにとてもびっくりして、単純に、何とかしなくちゃ、何かできることをしなくちゃ、と思った。今思えば、とても傲慢な感覚だったのだと思うけど、この映画を見て、この慣習にノーと言う声がアフリカの人たちのなかからどんどんあがってきているのだなぁと感じて、心強い。

ある西アフリカの村。「割礼」をいやがって4人の少女がコレのもとに逃げ込んでくる。コレは「割礼」の後遺症でふたりの子どもを死産した経験から、自分の娘には「割礼」を受けさせなかった。コレはこの子達を保護(モーラーデ)すると宣言する。いったんモーラーデが宣言されると、誰もこれを簡単に破ることはできない。これも大事な慣習のひとつなのだ。しかし、「割礼」という伝統にはむかう行為に対して村人からの非難が起こり、なんとかコレにモーラーデをやめさせようとする...

こんな重いテーマを扱いながら、画面は、服装の色鮮やかさのせいもあって結構明るい。思わずクスっとしてしまうような場面もあるし、アフリカの人たちの日常生活が生き生きと描かれている。水道がなく、ポンプのあるところまで女たちが水を汲みに行く。第一夫人、第二夫人、第三夫人が一緒に暮らす。いつの時代?と思ったけど、とりたててその説明はないから、現代と思っていいのだろう。ラジオ、テレビがあり、そこから情報を得る。フランスに行っていた長老の息子は車で帰ってくる...女は基本的に男に従う。子どもは親の言うことをきく。「割礼」を受けていない女は結婚相手としてはふさわしくない...歌、ダンス...

脚本はちょっと強引かな、と思うところもあるけれど、思わず涙してしまう場面もあり、心に響く作品だった。ウスマン・センベーヌ監督は、アフリカの人たちに、文字では伝えられないメッセージを映画を通して伝えたいと願い、映画製作を志したのだという。最後のクレジットが出るところで、ひとりの女性の歌声が響くが、これがまた素晴らしい。あまり多くの場所で上映されていないのが残念。見に行ける方はぜひ。

以下ネタバレ

モーラーデをやめようとしないコレに対し、「女は夫に従わなければいけないのだから」と夫にコレを説得させようとする村人たち。夫は村人たちの前でコレを鞭打つ。「モーラーデをやめると宣言しろ」と。しかし、コレは歯を食いしばって耐えるだけ。夫に歯向かうことはしないが、やめるとも言わない。見ていてすごくつらくなったところへ、あのお調子者の商人が止めにはいる。あの商人は、女と見れば口説きにかかり、暴利をむさぼる悪いヤツという感じで描かれていると思っていたのだけど、村人とは違う価値観を持ち込める存在だったのだ。

最後、コレを支持する女たちが増えて、助産師たちからナイフをとりあげたり、夫が兄に口答えしたりするのは、正直ちょっとできすぎだなぁと思う。町へ逃げた女の子が自殺した、というのもあり得る話なのかどうか...現実にはやはり FGM の問題はこんなに簡単に(簡単とはいえないけど)かたづかないものだろう。それでも、この作品をアフリカの人が見ることができれば、何か感じることができるし、もちろん私たちも。

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映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

FGMなどという制度がアフリカに存在するのを今日初めて知りました。そんなひどいことが行われているなんて、あまりにもかわいそうで涙が出ました。

だからといって、今すぐNGOに参加して。。とか、そこまでの気持ちはもてないけど。。でも、世界中の多くの人が、こういうことが行われていると知るだけでも、大事なことなんだろうなと思います。

教えてくれて、ありがとーー。

投稿: ほしの まい | 2006.06.19 07:02

まいさん、どうも(^^)。

うん、この慣習のことを初めて知るとショックだよね。どうしてそんなことをするのか理解できないし、現実に今でもそんなにたくさんの人に対して行われているなんて信じられない。

だけど、アフリカの村々で、当然の通過儀礼として行われてきたことに対して、西洋的な価値観とか感じ方で「なんてひどい慣習なんだ」という言い方をしても、当事者には響かなかったり...むずかしいです。

NGO に参加するといっても、運営スタッフにならなければ、実際に自分が表立って活動するということはほとんどないですよ。一メンバーとして会費を払い、会報を読んだり勉強会に参加して理解を深める、という感じです。ほとんどの NGO は金銭的に困っていることが多いから、会員が増えることは歓迎すると思います。FGM をなくすため取り組んでいるアフリカの団体を支援するのも結局はお金がいることなので。

ただ、もちろん、必ずしもNGO の会員になる必要もないと思います。まいさんが言っておられるように、まずは知ることが大事だと思います。特にこれは結構デリケートな問題なので公の場で話すのだってちょっと躊躇してしまうよね。でも、公の場に出していくことも必要なんだよね。コメントしてくれてありがとう(^^)。

投稿: じゃりんこ | 2006.06.19 21:37

こんにちは、じゃりんこさん。
行ってまいりましたわ。
以前、欧州でトップモデルをしている女性が、
このことについて講演をしているというテレビ番組を見た事ありました。

ウスマン・センベーヌ監督作品はご覧になったことありますか?

ハリウッド映画よりも感激しました。
ご紹介ありがとうございました。

投稿: まみ | 2006.06.29 12:57

まみさん、こんにちわ。 横レスです。

そのトップモデルだった人は、多分、ソマリア出身のワリス・ディリー(Waris Dirie)だと思います。 彼女の「Desert Flower: The Extraordninary Journey of a Desert Nomad」「砂漠の女ディリー」(草思社)は、インパクトのある本でした。 最近彼女の新しい本(Desert Children)を読んだと友人から聞いたので、借りて読もうかなと思っていました。

投稿: axbxcx | 2006.06.29 15:14

まみさん、こんにちは(^^)。

見てよかったと思われたならよかったです。
ウスマン・センベーヌ監督の他の作品は見たことがありません。日本で公開されたものもあるようですが、DVDとかで見るのはむずかしそうですね。

axbxcxさんが書いておられますが、「砂漠の女ディリー」はインパクトのある本です。FGM のことだけでなく、読み物としておもしろいので、機会があればどうぞ。
感想をここに書いています。
http://jarinko.tea-nifty.com/blog/2004/02/by.html

axbxcx さん、

「砂漠の女ディリー」の4年後に書かれた「ディリー、砂漠に帰る」というのは読みましたが、さらに Desert Children というのが出ていたのですね。知りませんでした。これは特にヨーロッパのFGM の実態と、ワリスに勇気付けられた女たちの声が載っているとのことなので、そのうち読んでみようと思います。でも、多分、邦訳が出てからになるかな(^^;)。

投稿: じゃりんこ | 2006.06.29 18:12

じゃりんこさん、こんばんわ。 昔、取り上げておられたんですね。 失礼しました。

私は多分1999年、初めてアフリカに行った年に、ケニアの丘の上のカバルネットという町のホテルで、同僚に借りて読みました。 当時はFGMも何も知らなかったので、ビックリでした。 その地域では、ツルカナ族は以前からFGMをやめており、ツゲン族もかなり減って来ているのですが、遊牧系の伝統を残すイル・チャムス族、ポコット族はまだかなりやっているという感じだったと思います。

投稿: axbxcx | 2006.06.29 23:11

axbxcx さん、

失礼だなんてとんでもない。axbxcx さんにとってもインパクトのある本だったんだな、と知ってよかったです。ひとりがそう言うより複数の人がそう言うほうが、実際そうなのかな、という気になりますよね(^^)。
私はアフリカに行ったことがないので、実態については、伝聞で聞くだけですが、axbxcx さんは現地でのFGM の状況をどなたかに聞かれたわけなのですね。なかなか話題にするのもそんなに簡単じゃなさそうな気がするのですが。

投稿: じゃりんこ | 2006.06.29 23:55

じゃりんこさん、ケニアではFGMは法律で禁止されていますし、役人や学校の先生は、女性も含めて普通に話題にします。 それは、自分たちは別の人種だと思っているからかも知れません。 そういう人たちは、村人と話すときも「啓蒙的」になってしまい、リアリティーのない会話をしているように見えますが…。

村のワークショップで家族計画が話題になったとき、女性たちが前向きに議論していたこと、一方、男性たちは傍観で、いざ家族計画をやろうというような話になったら文句を言い出した光景を思い出します。

FGMを受けた少女が歩けないでいるというような形で、外部の人間も垣間見ることになる、そんな感じでした。

投稿: axbxcx | 2006.06.30 07:48

現実は厳しいんですね。

映画のラジオが新しい情報源っていう扱われ方をしていましたが、なぜ、どうして、FGMがいけないのかという事が浸透しなければならないのですね。

<砂漠の女ディリー>の本も取り寄せてみます。
ありがとうございました。

axbxcx さんのHPにも時々お邪魔してます。
夢を夢でなく、現実にする方もいらっしゃるのだ!と感じました。

投稿: まみ | 2006.06.30 15:59

まみさん、こんにちわ。 ありがとうございます。

ケニアの半乾燥地では女性が村から出ることがほとんどありませんでした。 多分、一番多いのはヤギの競り市に行くこと、それから子供の病気や予防接種などで保健センターに行くことで、それを除くと、生まれてからこれまでに二度町に行ったとか、そんな感じになってしまうのです。 ですから、教会あるいは何かの集まりで話さない限り、なかなか情報が行き渡らないと思います。 ラジオも男が使ってしまって…という恐れがあるような気がします。

世の中、真っ直ぐな道を歩く人も多いと思うのですが、新聞の募集を見て転職したり、最後は思い切って独立してしまったりで、いまの仕事に辿りつきました。 自分としては、それぞれの場でそれぞれの時に経験したことが必ずどこかで役立っていると思いますから、回り道をしたとは思っていませんが…。

投稿: axbxcx | 2006.06.30 20:14

axbxcx さん、

そうですか、役人や学校の先生は普通にFGM のことを話しているのですね。

>自分たちは別の人種だと思っているからかも

役人や学校の先生になる人と「村人」とは何か違うのでしょうか。そういう人たちが村人と話すときは「啓蒙的」だということですが、何か通じ合わない会話をしていることが想像できます...

FGM の勉強会に話し手として来るアフリカの人はたぶんその役人とか学校の先生の立場の人になるのでしょう。法律で禁止されてもなお、それに逆らってまで慣習を守ろうとする人の話を聞く機会はないし、どうしてそこまで守ろうとするのかは正直私にはわかりません。それでも、役人とか学校の先生の立場の人が村人のなかに入っていって「会話」を成立させていくだろうと信じているわけですが。

まみさん、

ラジオの扱われ方は象徴的でしたね。「亀も空を飛ぶ」というイラクが舞台の映画で、イラクの小さな村に衛星放送のアンテナをたててテレビ放送をみんなで見ているという場面が(何度も)出てくるのですが、世界のどんな小さな村もグローバル化の波にとりこまれていくというか、でも、人間はやっぱり外の世界のことが知りたいわけですよね。その気持ちは止められない。そして、自分達とは違う価値観を持つ社会が存在することを知る。

「砂漠の女ディリー」は私はとてもおもしろかったです。自分をしっかり持っているところが魅力的にうつりました。

投稿: じゃりんこ | 2006.06.30 20:44

じゃりんこさん、こんばんわ。

> 別の人種

面倒だったのでひとくくりにしてしまったのですが、「まったく会話にならない」ことが多いのは県から上の役人です。 その点、小学校の先生や郡の役人、村長はだいたい同じ部族ですから、少なくとも部族語で話ができます。 でもやはり「別の振る舞い」を感じることはあるというところでしょうか。

県から上の役人で特に感じるのは、「村人は無知である」「村人は怠け者である」と本気で思っていることです。 それでは最初から話になりません…。 村人が無知で怠け者に見えるのは「単一の尺度」(それを近代化と言ってもよいかも知れません)でモノを観ているからに過ぎないのですが、みなさんエリートだと思っているし、頭が凝り固まっているので、それが全然見えないんでしょうね。 もちろん、外国人の専門家にもそういう人はたくさんいますが…。

> 勉強会の話し手

我々もじゃりんこさんと同じ考えですから、基本的に地元の小学校の先生や郡の役人にファシリテーターをお願いしています。 彼ら彼女らなら、本音で話ができるし、一方、我々の考えも理解してもらえる、本当の意味での通訳になってもらえる可能性が高いからです。 首都からファシリテーターを連れて行くということは考えられません。

> 法律

法律については、村の人たちがコミュニティーのルールには従っていたとしても、国というもの、そして国のルールというものをどこまで理解しているか疑問になることがあります。 どこの途上国にも世界水準の排出基準だけはあったりするように、紙の上に法律を書くことはいたって簡単です。 けれども、それをみなが知っていて、さらに納得していて、そして守るというのは、それぞれ全く違うレベルの問題だろうと思います。

我々はフィールドワーカーですから、法律がどうか、資料にどう書いてあるかということよりも、現場で実際に何が行われているか、何がルールになっているかを学ぼうとする訳です。

> グローバル化

ケニアの田舎では、5年前には携帯など誰も持っていなかったのが、ここ1、2年で村にも携帯を持つ人が出てきました。 いまのところは村長とか小学校の先生、長老くらいですが、それでも電気のないところに電話が通じるというのは、何だか不思議な気がします。

> 外の世界を知る

外の世界を知るということに関して、6年前に憤慨したことがあります。 アマルティア・センのインドの村の女性に関する保健の論文で、教育水準が上ったら、外の世界の情報にアクセスできるようになり、自分たちが相対的にもっと貧しいということに気がついたという話がありました。 教育水準が上ったら、貧困度の自己評価が下がった訳です。

そこまではよいのですが、「だから第三者評価が大事だ」と飛躍した人がいたので、それは違うと思いました。 村の女性たちは外の情報にアクセスできるようになって、自分を相対化できるようになった、より客観的な評価ができるようになったのです。 つまり、大事なのは客観的になれるというところであって、決して評価は第三者がやるのが望ましいという話ではないのです。

それで、当事者が客観的に評価できるようになるということを目標に、成功事例のスタディ・ツアーや、同じようなプロジェクトをやっている人たち同士の相互評価、(役人や我々が研修をやるのではなく)村人から村人への研修といったことを中心にやってきています。

最後に、外の世界のことを誰もが知りたいかと言えば、少なくとも短期的にはそうとは限りません。 ケニアにポコットという部族がいて、とても伝統的な生活をしているのですが、道路ができると外部との接触が増えるからという理由で、道路プロジェクトを拒絶したという話がありました。

長くなりましたが、明日から静かになりますので…。

投稿: axbxcx | 2006.07.01 00:01

axbxcx さん、

何かとお忙しいでしょうに、丁寧なコメントをつけてくださって本当にありがとうございますm(_ _)m。

そうですか、地元の小学校の先生とか役人なら、村人と実際に会話が成立するんですね。それを聞いてちょっと安心しました。確かに「村人は無知でこちらが啓蒙してやらなくてはならない」と考えている人とでは話が成立しないでしょうね。でも、そんな人ばかりではないということですね(^^)。

いわゆる第三世界で携帯を持つ人が増えてきている、というのはどこか他のところでも聞きました。固定電話より普及が簡単なわけですよね。

外の世界を知り、自分の状況を客観的に見ることができるようになる、というのは意味のあることだと思います。

外の世界を知ろうとしない部族もある、ということですが、それは伝統を守りたいからですよね。でも、この部族の人全員が、本当に外の世界のことを知りたくないか、というと、そんなことはないんじゃないかなぁという気がします。
子どもを見ていると好奇心のかたまり。なんでも新しいことを知っていくのはおもしろい。もちろん好奇心の強い子とそれほどでもない子はいますが、知らないことを知りたいと思うのは人間の本質じゃないかなぁという気がしています。
「母たちの村」では、女たちに余計な情報を与えないように、と男たちが女たちからラジオをとりあげました。伝統を守るために、外部からの情報は余計です。でも、女たちは外の世界のことが知りたかった。
確かに、好奇心を満たすことよりも、自分の心地よい生活を守りたい、と考える人もいるでしょうし、「誰もが外の世界を知りたいというわけではない」というのも真実だとは思います。

>明日から静かになりますので…。

ちょっとさみしくなります...が、現地からのブログの更新があることを期待しています(^^)。あちらでまた多くの収穫がありますように。

投稿: じゃりんこ | 2006.07.01 01:40

じゃりんこさん、おはようございます。

佐藤郁哉の「組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門」を読み終わったら娘に送ろうと思って、急いで読んでいるところですが、別に特に忙しくはありません。

> 丁寧なコメント

そうならざるを得ないのは、やはり一人トライアンギュレーションをする癖がついているからだと思います。 まず第一に、「自分がこうだから(あるいはこう考えるから)彼(女)らもそうに違いない」という知らず知らずの思い込みを徹底的に捨てること、ましてや、他人のことを「彼(女)らはこうあるべきだ」などとは絶対に考えないこと、というのが異文化と接するときの基本だろうと思っているのです。 そして、だからこそ、決して「一つのモノの観方をしない」、多様な価値観が存在することを前提に「いろいろな角度からモノを見る」ということが必要だと思っています。

> 重要なテーマ

先日、大学の教員をしている先輩と30年ぶりで話す機会があったのですが、その時に「日本的な異文化への接し方をどう思うか」と訊かれました。 ヨーロッパの国々はアフリカなどの植民地を最初から異なるモノと捉え、それを前提に植民地経営したと理解されるが、日本は異文化の存在自体を認識せず、日本の延長で植民地支配をしようとしたのではないか、欧米と日本の途上国への援助のやり方にも、それが出ているのではないかという設問です。 実は小熊英二の「<日本人の境界> 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで」を読んで、その辺りのことをボンヤリと考えていたので、ドキッとしました。 どちらがよいというような話ではなく、その違いを明らかにしておく必要があるのではないかと感じています。

> 地元の小学校の先生や役人

また「丁寧すぎる」コメントになってしまいますが、背景としては小学校の先生や郡の役人は、基本的に同じ州内、かなりの場合は同じ県内で異動することがあります。 つまり、同じ言語をしゃべる同じ部族の人が配置されているのです。 それに対して、県から上は、州内が多いとは言え、本省も含めた全国ベースの異動があります。 そういう人たちは、地元から離れれば、標準語(スワヒリ、英語)でしかコミュニケーションできないということになります。

もう一つの背景は学校歴です。 小学校の先生は教員養成大学、郡の役人は大学のdiplomaコースの卒業生というのが普通なのに対して、県から上の役人は基本的に四大卒(B.A.、B.S.)以上ということになります。 diplomaの取れる大学は地元にあっても、四大は都会に出ないとないのが普通です。 さらに、最近は、役所で偉くなるためには修士以上が必要だというルールができてしまったので、50歳を過ぎた人たちが通信制の大学院に通っていたりします。 修士がないと課長になれないのです。

そんなこともあって、ケニアでもマラウイでも、学校歴には異常なほどの執着があります。 diplomaだってほんの一部の人しか取れないのに、そういう人たちがみな上を目指す訳です。 そのため、大学を出た人たちの中で大学院に進む比率が極めて高くなっていると思います。

それは実は小学校にも影響していて、どこの小学校に行っても中学進学者数が県内で何番目だったかが書いてありますし、地元の人たちもどこの小学校が何番、どこの中学校が何番ということをおよそ知っているのです。 村の有力者は子供たちを町の私立の学校に送りますし、家を借りて公立の有名小学校に行かせる役人もいたりします。

一方では、村の女性で初めて中学校を出た人がまだ二十歳そこそこだったりするのが現状なのですが、一方ではそんな受験競争もあるのです。 一緒に仕事をしているケニア人のコンサルタントも博士が多くて、何だか困ってしまいます。 私が本当の学歴の話はしても、学校歴の話なんかしたくないのも、そういう経験をしているからです。

また長くなりましたが…。

投稿: axbxcx | 2006.07.01 09:23

axbxcx さん、

「トライアンギュレーションって何?」と思って調べてしまいました。要は「いろいろな角度からモノを見る」ということなのですね。

>自分がこうだから(あるいはこう考えるから)彼(女)らもそうに違いない」という知らず知らずの思い込みを徹底的に捨てること
これはなかなかむずかしいですね。どうしても「人も自分と同じだろう」と考えがちで、他の人と接して初めて「ああ、違う見方もあるんだ」と気づく、という感じです。だから他の人の話を聞くのは好きなんですが(^^)。

ヨーロッパと日本とで異文化への接し方が違ったというのもおもしろい視点ですね。考えたことありませんでしたが、そう言われればそうだなぁと思います。アメリカの場合はヨーロッパ人ですけど、先住民の文化の存在を認めたという気はしませんが。北米では人種混合がすすまず、中南米ではすすんだ、というのは、プロテスタントとカトリックの違いとか、先住民人口の多さの違いとか、いろいろ言われていますが、こちらもおもしろい視点だと思っています。

昨年、放送大学で「比較教育制度論」というのを取ったのですが、残念ながらアフリカの学校制度はとりあげられていませんでした。そういう「エリート」が生まれてくる構造があるのですね。学びたい、という気持ちももちろんあるでしょうし、学校制度が充実していくのはいいことだと思いますが、そんなふうに出世の手段になってしまっているのだとしたらさみしいですね。しかも、それでかえって村の人たちとコミュニケーションがとれなくなっているのだとしたら...
「学びたい!それが入学資格です」という放送大学のキャッチコピーは結構好きです(^^)。

投稿: じゃりんこ | 2006.07.01 11:28

じゃりんこさん、飛行機は夜なので、まだ家にいます。

> トライアンギュレーション

あ、それは失礼しました。 フィールドワーカーがよく使う単語で、佐藤郁哉さんも使っておられたので、放送大学の講座でも使っているだろうと「思い込んで」しまいました。

> 異文化への接し方

小熊英二の本にも出てきますが、フランスとイギリスの違いというのにも興味深いものがあります。 フランスは言葉も含めて植民地の文化まで変えようとしたのに対して、イギリスは儲かればよいという考え方でビジネスや技術の訓練に留めたということです。 その名残りとして、旧フランス領の国はどんな田舎に行ってもフランス語で教育していますが、旧イギリス領の国では部族語も使われています。

> プロテスタントとカトリックの違い

個人的にはこれには懐疑的です。 東海岸でもアイルランドやイタリアからの移民は多かったはずですし、南部はスペイン、フランス(カトリックとは限りませんが)の移民が多かったはずだからです。(「デッドマン・ウォーキング」でスーザン・サランドンが演じたのは、ニュー・オリンズ辺りのフランス系アメリカ人のシスターでしたが、いわゆるペンギン・スーツを着ていないシスターがいるのかと、ちょっとビックリしました。)

> 先住民人口の多さの違い

これはかなり決定的だと思っています。 北米やオーストラリア、ニュージーランドこそ、本当の意味での植民地でしょう。 何しろ、乗っ取ってしまったようなものですから。 またラテン・アメリカの中でも、白人の国に近いところ(アルゼンチン)とそうではないところの違いに興味があります。

> 教育制度

日本のように、中世から村に読み書きができる人がいた国というのは、なかなかないのではないでしょうか。 ケニアの場合、女性が学校に行くようになったのはそれほど古い話ではありません。

ビクトリア湖畔のホマベイ県というところでワークショップ参加者に学校歴を答えてもらったら、30歳代までで小学校にも行ったことのない女性は5%程度ですが、40代になると3割、50代になると4割近くがまったく学校に行ったことがありませんでした。 それが男性だと、50代でもほとんどの人が学校に行ったことがあり、60代以上でも行ったことがない人は10~15%程度なのです。 ケニアの部族の中でも、一番教育水準が高いと言われているルオ族ですらです。

> 「学びたい!それが入学資格です」

いいですね! 私の場合、本当に勉強を始めたのはここ10年くらいのことです。 もちろん、昔に学校で学んだことが無駄だったとは思いませんが、いま現場で自分で学んでいること、そしてそこで感じた疑問を解決するために本を読んだり研修に出たりして学んでいることの質、量、そして密度は、昔とは比較になりません。 まあ、昔、あまりに勉強していなかったからですが…。

投稿: axbxcx | 2006.07.01 12:43

axbxcx さん、

思い込みを完全に廃するのは多分無理ですよね。
私はフィールドワークの勉強をしたいなぁと思い始めたところで、axbxcx さんとは「先生ー生徒」の関係に近いと思います。(トライアンギュレーションという言葉は、使われたことがあったのを気づいてないだけかもしれませんが(^^;))

放送大学は、放送授業でも面接授業でも結構おもしろい講座があるのですが、やはり「深める」ことはなかなかできないです。昨年取った高橋和夫先生の「国際政治」と「第三世界の政治」はとてもおもしろかったのですが、高橋先生の授業をもっと取りたいと思ってももうないし。そこから興味が広がったことについて学びたいと思っても用意されている講座はありません。そのあたりが放送大学の限界かなぁと思います。PARC自由学校もおもしろそうですが、高いですね...リーズナブルな額かなとは思いますが、放送大学がめちゃくちゃ経済的なので、比較すると、つい。基地のなかの大学にも興味がありますが、まず TOEFL を受けなくてはいけないし、授業料がやはり高いので、まだ何も動いていません。でも、その気になればいろいろ勉強できる環境にはあるわけで、ありがたいことだと思っています。

ケニアはアフリカのなかでも学校が結構あるところなのでしょうかね。「ナイロビの蜂」に出てきたスラムの子ども達は学校に行っているのかなぁ...学校制度の問題点がいろいろ言われることもありますが、やはり学ぶ環境が用意されていることはいいだろうなぁと思います。

フランスとイギリスの違いは「比較教育制度論」でも述べられていました。自由主義を重んじるイギリスでは、公権力による学校制度の整備に強い抵抗があったようですが、「国家が教育を通じて、あるべき社会秩序と市民を育成する」という共和主義理念が革命期以来の伝統であるフランスでは教育に関して国家が持つ権限が大きいそうです。そのあたりが植民地経営の違いにも表れている感じですね。イスラムも各地の慣習などを変えようとはせず、ビジネスライクな支配をしたと言われていますが、axbxcx さんが書かれたことを読んでイギリスと似ているな、と思いました。

カトリックでは先住民に対する布教に熱心で、信者の出身に関係なく同一の教会に所属させる傾向があったけれど、プロテスタントのほうは、先住民への布教に当初あまり熱心でなかったうえ、多くの宗派に分裂しており、教会も人種別に分かれる傾向があった、と放送大学「アメリカの歴史」で習いました。また、北米の場合、イギリスで弾圧を受けたピューリタンのように家族ぐるみで移住したため、異人種間結婚があまり行なわれなかったが、中南米では、男子単身で出稼ぎ的に移住した場合が多く、先住民の女性と事実上の婚姻関係が結ばれることが多かったのだ、という話も出ていました。

スーザン・サランドン、私も好きですが、この間見た映画(DVD)で、若い男をあさる有閑マダムの役をやっていてちょっと悲しくなりました。まあ、そういう役を拒否することなくやる、というのもエライところなのかもしれませんけど。

日本を長く離れる前となれば、私だったら(必要以上に(^^;))バタバタしてしまいそうですが、axbxcx さんは落ち着いたものですね(^^)。旅のご無事をお祈りしています。

投稿: じゃりんこ | 2006.07.01 14:55

じゃりんこさん、まだ羽田です。

まずスーザン・サランドンのあの映画、DVD持ってますけれど、私はそういう風には観ませんでした。 あの立場、あの情況で、最大限の努力をしている女性という役柄だったと思いましたから…。 イラク侵攻前、ワシントンDCで反対演説をしていたスーザン・サランドンはなかなか素敵でした。 私、ティム・ロビンスのファンでもありますし…。

それから、じゃりんこさんの書かれたカトリックの話って、やっぱりラテン・アメリカのことではないかという気がしてなりません。 北米では、「先住民への布教」という話がそこまで出て来ないと思いますから…。

私の北米のカトリックのイメージというのは、プロテスタントと同じように人種別の傾向が残っていて、アイリッシュはアイリッシュのカトリックの教会(例えばポール・ニューマン主演の映画「評決」、イタリアンはイタリアンのカトリックの教会(マフィア映画一般)、ポーランド系はポーランド系のカトリックの教会(例えばトム・クルーズ主演の「栄光の彼方に」)…というものでした。(人種別に教会があると言うよりも、人種別に住み分けていて、そこに教会があると言った方が正しいでしょうが…。) 私がそう思い込んだだけで、間違っているかも知れませんけれど、何しろ、私がカトリックの教会に行かなくなったのはそれが理由なのですから、私がそう感じてしまったことは間違いありません。

実はフィラデルフィアに結構愛着を感じているのですが、それはフィラデルフィアが北米植民地で唯一の宗教的に自由な町(だから「兄弟愛の町」)だったからです。 ボストン近郊(セーラム)では魔女狩りのようなことがありましたし、「変わった」宗教とみなされた人たちは、ヨーロッパから追われただけではなく、ボストンなどからも追われるようにしてペンシルベニア州にやって来たのです。 それで、州のニックネームはクエーカーズですし、ハリソン・フォード主演の映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」に出てきたように、アーミッシュの人たちもいる訳です。

まあ、既にお気づきのように、私の場合、本は常に後追いで、自分自身で気づく、学ぶというのが先です。 したがって、とんでもない勘違いをする可能性は他の人より高いと思います。(^_^;

投稿: axbxcx | 2006.07.01 20:13

axbxcx さん、羽田からの書き込みありがとうございます(^^)。

はい、私が書いたのはラテンアメリカの話です。ラテンアメリカに入植したカトリックの人たちがそういうふうだったので人種混合もすすんだ、という話でした。北米の場合、やはり最初に移住してきたプロテスタントのイメージが強いわけですが、おっしゃっているように18世紀になればアイルランドなどからのカトリック教徒がたくさん移住してきて、旧来からのプロテスタント住民との間に文化摩擦が起こったとされていますね。ただし、この時期に移住した最大の民族集団はアフリカからの黒人奴隷だったそうです。移住したのがほとんどみんなカトリックの人であり、また、先住民人口が多かったためそれほど多くの黒人奴隷を必要としなかったラテンアメリカと比べて北米で人種混合がすすまなかったのがちょっとわかる気がします。

スーザン・サランドンの映画は「アルフイー」のことでしょうか?(ってここで尋ねてもはたして読んでもらえるのはいつになるのかなぁと思いながら書いていますが(^^;))...確かに、年をとっても魅力的な女性として描かれていましたよね。だからこそアルフィーも惹かれたわけで。ただ、彼を振った言葉がなんとも...だったので。
私もティム・ロビンス好きです。なんかうらやましいカップルですね(^^)。

実際の経験が先にあるっていうのは理想的ですよね(^^)。だいたい私は頭でっかちだと思います(^^;)。でも、異なる文化的背景をもった1歳の子ども達との毎日が私のフィールドかなぁと思います。

投稿: じゃりんこ | 2006.07.01 21:01

じゃりんこさん、ドバイの空港です。 ここまではハイテクの恩恵に預かれます。

安かったので、最近DVDを買ってしまったスーザン・サランドンの映画は、古い古い「ぼくの美しい人だから」でした。 違う映画の話してましたか。(^_^;

そう言えば、RENTに「テルマ&ルイーズ」みたいにジャンプするという歌詞がありましたが、あれも好きな映画です。 「ロッキー・ホラー・ショー」は下の娘のお気に入りでもあります。

もちろん、カトリックとプロテスタントという切り口で説明できることもあるでしょうが、それよりも時代の違い、スペイン、イギリスなどの植民地支配のやり方の違い、そして植民者の人口の占める割合などの要因の方が大きいというのが「仮に考えてみた説」でした。

カトリックの中にもいろいろな修道会があって、かなり雰囲気が違う(戦闘的グループ、学者的なグループなど)こと、ましてやプロテスタントの中はもっと違う(リベラルな宗派から、完全に原理主義の宗派まで)ことから、カトリックとプロテスタントという風にくくってしまうのはどうかなと思ったのですが…。

投稿: axbxcx | 2006.07.02 10:50

axbxcx さん、

ドバイでは高速回線が使えるのですね。トルコに旅行したとき、携帯からブログを更新していましたが、イスタンブールやカッパドキアでは問題なくできたものの、東部のいなかに入ってしまうと接続できなくなってしまいました。イスタンブールにもどったときには、子ども達の希望もあってネットカフェに入り、つくづくネット中毒だなぁと思ってしまいました(^^;)。

違う映画の話だったのですね。「ぼくの美しい人だから」は見たことありますがよく覚えていません。「テルマ&ルイーズ」は、ロンドンに住むペンパルと映画の話をしたときに彼女がまずお気に入りの映画としてあげたので印象に残っています。もはやクラシックですね(^^)。

カトリックとプロテスタントについてはおっしゃるとおり、そういうくくりにあまり意味がないのかもしれません。それが一番の理由というわけでなく、様々な理由のひとつかも、という感じの説明でした。

投稿: じゃりんこ | 2006.07.02 11:29

じゃりんこさん、ようやく「母たちの村」のDVD観ました。 よくできていると思いましたし、景色もかなりガーナに似ていると思いました。 着ている服と住んでいる家は綺麗過ぎて、絶対にあんなはずはないとは思いましたが、それを除けば雰囲気はあの通りでしょう。 蟻塚に杭がささったような形のモスクはガーナにもありますし、やかんは私が写真に撮った奴の色違いに見えました。 ガーナはわかりませんが、ビクトリア湖畔のルオの地域(ケニア)では、あの傭兵と呼ばれていた男性のように消されてしまうというようなことが、普通にあると聞きました。 掟を破るということに対する怖れもあんな感じではないかと思います。 また第一夫人・第二夫人・第三夫人の関係もリアルな気がしました。 ということで、むしろ地元の人たちに観てもらいたいような映画でした。

投稿: axbxcx | 2007.08.29 00:08

axbxcx さん、

感想を聞かせていただき、ありがとうございます(^^)。

服と家はともかく、アフリカの現状を反映している映画と思っていいのですね。
監督はアフリカの人たちに文字では伝えられないメッセージを伝えようと映画製作を志した、とのことですが、実際、アフリカではどのくらいの人が見ることができたのでしょうね。
FGMの勉強会でアフリカから来た人の話を聞くことがありますが、ここで話すより地元で話すほうが(気持ちとして)むずかしい、というようなことを言われることがあります。それでも、少しずつ、違った見方や考え方があるのだ、ということが地元でも広がっていっているのでしょうね。

投稿: じゃりんこ | 2007.08.29 19:49

ガーナで言えば、地方都市には映画館がありませんでしたし、移動映画館でも来ない限り、映画を観ることはないと思われます。 テレビに関しては、ちょっとした村の有力者の家や食堂にならあるかも知れませんが、その程度でしょう。

あの辺りはナイジェリアのテレビ番組がよく放送されている(マラウイでもやっていました)のですが、私には何から何まで大袈裟に作られている感じでした。

私も日本語で日本で話をするより、現地で英語で話をした方がずっと楽なことがあります。 日本でもそういうことはよくあるのではないでしょうか。

投稿: axbxcx | 2007.08.29 20:26

axbxcx さん、

やはりアフリカで映画を見るのはなかなかむずかしいのでしょうね。

>私も日本語で日本で話をするより、現地で英語で話をした方がずっと楽なことがあります。 

そうなんですか。日本でも話題に出しにくいことってやっぱりありますかね。

投稿: じゃりんこ | 2007.08.30 00:05

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