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トントン、入ってますか?

うちの保育園の職員はキッチンや事務の人もいれると約30名。そして、それに対してトイレは男女兼用のものがたったひとつ。保護者やお客さんもそれを使うわけで、どう考えてもトイレの数は不足している。2歳児以上クラスには子供用のトイレはそれなりの数があるが、大人用トイレはそのメインのトイレのほかにはうちのクラス内にもうひとつあるだけで、これは基本的には使わないように、と言われている(合理的な理由はない!し、どうしたって足りないので使うことになるけど)。

でもって、そのメインのトイレには鍵がない!一度、子どもがトイレに入り込んで閉めてしまったことがあったようで、その後鍵がとりはずされてしまった(>_<)。使用中は「使用中」の札をドアにかけ、終わったらそれを裏返して「空き」の札にしておく。ところが、終わっても裏返さない人もいるし、「空き」のサインのまま入っている人もいたり(!)で、ドアのノックは欠かせない(^^;)。

ノックをすると返ってくる答えは
"Hold on!" (待って)
"Wait a second!"(ちょっと待って)
"Busy."(ふさがってます)
"I'm in." (入ってます)
など。私は "Yes?" ということにしている。

で、今日は次女の学校の保護者会があったので、1時間休みをとって参加。いったん家に帰ってからでかける時間はなかったので、学校の近くのスーパーの駐車場に車を停め、そのスーパーのトイレを使わせてもらっていたら、ノックの音。思わず、”Yes?”と言ってしまい、しまったと思ったけど、あとのまつり(>_<)。トイレから出ると顔を知っているおかあさん(^^;)...おたがいに曖昧に会釈してやりすごす...(^^;)

ちょと不思議なのは保育園のトイレでノックをされて"Yes?" と応えると "Sorry." と返されるのが多いこと。ゆっくりトイレ中なのを邪魔して悪いと思うのだろうか。あのトイレの場合、たとえ「使用中」のサインがあってもノックをするのは当然だと思うから謝る必要なんてないと思うのだけど。日本人はトイレのドアが閉まっていてノックしたとき、中に人がいることがわかっても普通は謝らないですよね?

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いまどきのライブチケット入手法

Cocco先週の金曜日、放送大学の授業から帰ってくると、左のような紙が食卓に。次女のお気に入りの歌手のライブチケットをチケットぴあで取るために私のIDを使わせてほしい(彼女はクレジットカードを持っていないので)と頼まれたのだが、IDとかパスワードがわからなくなってしまっていた。先週は放送大学のレポートがあったので、終わったら調べておくから、と言っていたのだけど、母のいい加減さをよくわかっているようで(^^;)、しっかり催促されたわけだ。本人はこの日、日本ーブラジル戦を見るため4時起きだったため、早々とご就寝。私も4時半起きだったんだけどなーと思いながら、IDを確認、パスワードを適当に設定して、次女にメール。

土曜の朝10時からの発売だったらしいのだが、12時半に部活から帰宅した次女がアクセスしたときにはとうに完売。私の学生時代には、レゲエやサンバのコンサートチケット(円山音楽堂とか大阪厚生年金会館ホールとか)を取るのにそんなに苦労した覚えがなく(京都にはいいライブハウスがいくつかあって、大物が来るときはすごく並んだことがあったような気もするけど)、今、ライブのチケットを取るのがそんなに大変だとは知りもしなかった(^^;)。

どうしてもあきらめきれなさそうなので、ヤフオクなどを見てみると、あるわあるわ...チケットぴあのチケットには「営利目的の転売禁止」となっているけれど、どう見ても営利目的で購入転売している人がたくさん。チケットは全席均一料金で、舞台まん前の席であろうと、2階のはじっこの席であろうと同じ値段で売られていたのだが、ヤフオクに出ると、やはりいい席は高い値がつき、そうでもない席はそれなりの値になる。それなりといっても、定価よりは高くなる。ダフ屋から買いたくない、と思っていても、ライブに行きたいという気持ちには勝てない。で、結局、営利目的で転売する人から買うことになってしまう。次女も自分の持っているおこづかいの範囲でギリギリ出せる額を決めて落札。彼女にはかなりの高額だけど、ライブに行ってみたいという気持ちはわかるので...

事情ができて行けなくなったなど、チケットを売るルートが存在するのはいいと思うのだけど、本来のファンがすんなりとチケットを買えないのはやっぱりなんか不合理なものを感じてしまう。「営利目的の転売禁止」という文言がすごく白々しく見える...こうすれば、といういい案は思いつかないんだけど。

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本「肉体不平等」by 石井政之

「あたりまえ」を疑う社会学」からのおすすめ本で、副題は「ひとはなぜ美しくなりたいのか?」

小さい頃から、色白の妹と比較して「あんたは色が黒い」だの「かわいくない」だのと母に言われ、おしゃれに関心を持つようになると「身をやつすことばっかりに気をとられて」などと非難され、何かおしゃれをすることがよくないことであるかのような感覚を持って育ってきた私は、実際、自分を美しくする努力をあまりしてこなかった(^^;)。私が化粧するのを夫がいやがったのをこれ幸いと(めんどくさがりやなので(^^;))ふだんは化粧もしなかった。だから「自分だけのスタンダードなメイク方法を見つけておくことは、大人のたしなみである」(p.120) なんて言われると「すいません」と小さくなるしかない(^^;)。

身体コンプレックスとどうつきあうか、という話で、私ももちろん身体コンプレックスはあるけれど、多分それをあまり深く考えないようにしてきた(これも身体コンプレックスとつきあうひとつの方法じゃないかと思うのだけど)ためか、読んでいてそれほどピンとくることはあまりなかった。乙武さんの「五体不満足」についての分析は、ちょっとなるほど、と思うところがあったけれど。

一番おもしろかったのが「あとがきにかえて」の部分だった(^^;)。

イラク戦争の報道に関して、米軍に従軍している記者は「戦死した兵士の顔の映像を報道しない」という条件を受け入れて従軍していたのだそうだ。

美容整形産業が決してその「失敗例」の顔や身体を公表しないように、戦争をする国家もまたその犠牲者の死体を隠す。もし、その死体映像が明らかになれば、正義の戦争などあり得ないということが誰の目にも明らかになってしまう。(p.184)
アメリカは、戦争中の虐殺のようすを徹底的に隠蔽し、戦争の「ビフォー」「アフター」だけを世界中に誇らしげに発表するつもりのようだ。「ビフォー」とはサダム・フセイン独裁体制であり、「アフター」とはアメリカによるイラク解放である。その過程で出現する大量の死体は、高性能特殊爆弾によって肉片になって飛び散っていく。(p.185)
顔という個人識別が可能な死体の報道は、なぜその人が死ななければならなかったのかという想像力を刺激する。だから戦争の「現実」は報道しない。テレビに映るのは、堂々としたルックス、身だしなみをもったアメリカ政府の高官だ。

「身体は個人的なものであるようでいて、きわめて社会的なものです。社会からのまなざしに人生を翻弄される人が少しでもいなくなることを祈りつつ...」という最後の言葉にこの著者の思いが凝縮されているのだと思う。

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放送大学面接授業「心理学実験・実習」

この科目名でたくさんの講座が開設されているが、私が取ったのは細田一秋先生のクラスで、これは毎回本当におもしろかった。扱った内容は錯視 、性格検査、そして最終回の昨日は鏡映描写実験というのをやった。

鏡映描写というのは、手元を見ずに鏡に映った映像を見てそれをなぞっていくというもの。鏡映描写器という器具を用いて、手元が見えないようにして、星型の描かれた紙をセットし、その星型をなぞっていく。どんなものか具体的に見たいという方は、ここ

Star鏡に映った映像をなぞるなんて言葉で聞くと簡単そうだが、実際にやってみると驚くほどできない。(自宅でやってみる場合、手元が見えると簡単なので、ノートか何かを使って手元を隠すようにする必要がある。)私は最初15分以上もかかってしまった(^^;)。手をどう動かせばどういう方向に描けるのかまったくわからないのだ。ところが、練習を重ねるうちにあっというまにできるようになり、2回目には3分をきり、4回目には1分半、5回目では1分を切って、10回目には20秒で描けるようになった。(写真右側が1回目、左側が12回目。)頭でどう動かすか理解しているという感じではなく、手が覚えていくという感じなのだ。人間は右と左が逆に見えるような逆さめがねをかけても、そのうちそれで生活できるようになる、と聞いたが、そうなのだろうなぁと思った。

第4回目にYG性格検査を扱ったときは、性格検査にはどういう項目が盛り込まれるのか、とか診断の仕方とかを聞いておもしろかった。精神科などで検査してもらうことはできるようだが、検査してもらって結果を聞くだけより、検査の作り手の意図とかを知ると断然おもしろい。

平日夜5回連続の授業なので、集中授業に比べると時間の都合をつけるのが大変なのか、出席者も少なかった(9名)が、心理学初心者にはとても楽しめるお得な授業だった(^^)。

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はじめに言葉ありき?

放送大学面接授業「心理学実験・実習」(細田一秋先生担当)。明日が最終回で、授業で興味を持ったことをひとつ選んでレポートを書いて提出しなくてはならない。最初、錯視について書くつもりだったのだけど、前回の授業でやった「YG性格検査」(矢田部ギルフォード性格検査)がおもしろかったので、こちらで書くことにした。

YG性格検査は、アメリカの心理学者ギルフォードが開発した手法を、矢田部達郎らが日本人向けに作り直したもの。ギルフォードは、性格を表す言葉をピックアップし、それを分類して性格検査を作り上げたとのことだが、それではギルフォードの作った性格検査と矢田部の作った性格検査とではどのような違いがあったのだろうか、日本語と英語ではどういう違いが出てくるのか、ということに興味を覚え、調べてみようとした。ところが、短期間では、ギルフォードの性格検査がどのようなものであったのかを調べるのはむずかしく、結局、この検査を作るのに依拠したという「言語相対性仮説」について調べて書くことにした。

言語相対性仮説は、この説を主張したアメリカの言語学者の名前にちなんで、「サピア・ウォーフの仮説」とも呼ばれている。 簡単に(乱暴に(^^;))いうと、「言語はそれぞれ独自の仕組みをもっており、人間の思考や認識はその人間の話す言葉によって決定される」という考え方だ。

たとえば、虹が何色(なんしょく)であるかという問いに対する答えは、日本語を話す人と英語を話す人で違う。このことは放送授業「英語Ⅳ」でもとりあげられていた。日本人は七色と答えるが英語を母語とする人にとっては六色なのだそうだ。(へぇ、と思って同僚に聞いてみたけど、みんな答えはバラバラで、必ずしも六色というわけではなかった。)アラビア語にはラクダに関する語彙が豊富だし、エスキモーの言葉には雪に関する語が豊富だ。人間が生きるのに必要かつ重要な語彙は多くなる。色について豊富な語彙をもつ言語もあれば、「濃い」と「薄い」のふたつしか色についての言葉をもたない部族というのもあるという。このような言語の違いが人の認識や思考の仕方に影響を与えると考えられる。

言語が思考や認識の仕方に影響を及ぼすことは確かだと思う。ただ、思考や認識は必ずしも言葉を通じて行われているわけではないから、言語が思考や認識を規定するとまではいえないだろう。

私は基地の保育園で毎日1歳児を見ているわけだけど、1歳児が話すことのできる言葉は大変限られている。単語(bye-bye, dog, hot など)に始まり、2歳近くになると二語文("big dog", "All gone", "Daddy bye-bye"(パパは行ってしまった)"John hit"(ジョンがたたいた)など)、三語文("I did it!" "What is this?" など)が話せるようになっていく。話すことはできなくても理解することのできる言葉もあり、1歳児は大人の簡単な指示を理解することができる(ようになる)。「すわりなさい」「ジャケットを持ってきて」など。これらはもちろん、英語で行われる必要があり、日本語での指示は理解できない(もちろん、それを続けていればできるようになるだろうが)。ということは、彼らは言葉を使って考え始めているわけだ。

その一方で、言葉によらない思考というのも存在する。丸や三角のパズルを同じ形の穴に入れるシェイプソーターと呼ばれるおもちゃがある。同じ形のところに同じものを入れるのに、必ずしも丸とか三角とかひし形などの言葉を知っている必要はない。もちろん、その言葉が理解できるようになれば、多くの場合、正解率は増えていく。また、高いところにあるものを取るために台になるものを持ってくる。その子どもは自分の行動を言葉で説明することはできないだろう。「こうしよう」と言葉を使って考えているわけではない。あるいは、「この保母さんが来るといつも僕のお気に入りの保母さんが行ってしまう」というような状況を子どもは察知することができるが、やはりそれを言葉で考えているわけではない。

こう考えてくると、やはり「はじめに言葉ありき」というわけではないだろう。それとともに、以前「わたし」と「あなた」で書いたように、英語と日本語の違いもあるし、それが子どもの認識の発達にどういう影響を及ぼすのかとか、バイリンガルの場合はどうなるのか、とかいうのはとても興味深い問題だ。両親の母語が違う家庭というのも身近にたくさんあるのでぜひ調べてみたいなぁと思うけど、具体的にどういうふうにアプローチすればいいのかがまだわからない...

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シャラップ!

高2の長女、中3の次女との会話。

長女:シャラップって英語?
母:そう。Shut up.
長女:Shout up? 叫ぶ?
母:Shut up.
長女:さえぎるってこと?
母:Shut は「閉じる」だね。
長女:へいこうしろってことか。
次女:へいこう?...ああ、閉口。それはまた意味が違うんじゃないの?口を閉じて何も言う気がしないとか。あいた口がふさがらないとか。
母:それじゃ、口は閉まってないじゃん。

こんな会話をしながらアイスコーヒーを淹れていた私は、つい、いつもの癖でミルクをあっためてしまった(--;)...

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映画 「母たちの村」 Moolaadé

アフリカの多くの国で現在も行われているFGM (女性性器切除)という慣習。「女子割礼」と聞くと、一般的に行われている男性の割礼と同様、それほど身体へのダメージはないものなのだろう、と想像されるが、現実には大きな後遺症を残したり、最悪死に至る場合もある、というようなものだという。くわしくはこちら

私はこういう慣習が存在するということを知ったときにとてもびっくりして、単純に、何とかしなくちゃ、何かできることをしなくちゃ、と思った。今思えば、とても傲慢な感覚だったのだと思うけど、この映画を見て、この慣習にノーと言う声がアフリカの人たちのなかからどんどんあがってきているのだなぁと感じて、心強い。

ある西アフリカの村。「割礼」をいやがって4人の少女がコレのもとに逃げ込んでくる。コレは「割礼」の後遺症でふたりの子どもを死産した経験から、自分の娘には「割礼」を受けさせなかった。コレはこの子達を保護(モーラーデ)すると宣言する。いったんモーラーデが宣言されると、誰もこれを簡単に破ることはできない。これも大事な慣習のひとつなのだ。しかし、「割礼」という伝統にはむかう行為に対して村人からの非難が起こり、なんとかコレにモーラーデをやめさせようとする...

こんな重いテーマを扱いながら、画面は、服装の色鮮やかさのせいもあって結構明るい。思わずクスっとしてしまうような場面もあるし、アフリカの人たちの日常生活が生き生きと描かれている。水道がなく、ポンプのあるところまで女たちが水を汲みに行く。第一夫人、第二夫人、第三夫人が一緒に暮らす。いつの時代?と思ったけど、とりたててその説明はないから、現代と思っていいのだろう。ラジオ、テレビがあり、そこから情報を得る。フランスに行っていた長老の息子は車で帰ってくる...女は基本的に男に従う。子どもは親の言うことをきく。「割礼」を受けていない女は結婚相手としてはふさわしくない...歌、ダンス...

脚本はちょっと強引かな、と思うところもあるけれど、思わず涙してしまう場面もあり、心に響く作品だった。ウスマン・センベーヌ監督は、アフリカの人たちに、文字では伝えられないメッセージを映画を通して伝えたいと願い、映画製作を志したのだという。最後のクレジットが出るところで、ひとりの女性の歌声が響くが、これがまた素晴らしい。あまり多くの場所で上映されていないのが残念。見に行ける方はぜひ。

以下ネタバレ

続きを読む "映画 「母たちの村」 Moolaadé "

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バードリスニング

奥多摩へ。鳥の鳴き声があんまり気持ちいいので録音してみました。聞いてみようと思われる方はこちらへ(MP3ファイル。30秒)。
ボリュームを最大にしてお聞きください(^^;)。開始後8秒後に入る電子音は、娘が携帯で録音しようとした音(--;)です。バードウォッチングをしてみたくなりました(^^)。

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人種差別?

サッカーのワールドカップで "Say no to racism" (人種差別反対)という旗が試合開始までセンターサークルに置かれるのだ、と聞いた。たまたま、昨日、この "racism" という言葉を耳にしたので、ちょっと書いてみたい。

うちの1歳児クラスは、日本人の私と、フィリピン女性K、黒人男性Eの3人が担当している。今週からKがバケーションをとっているので、その間、大学の夏休みで帰省している黒人男性のJがうちの部屋を手伝ってくれている。で、Kがバケーション中は私が早番で、Jが中番、Eが遅番というシフトだ。私が3時半頃部屋を出たら、後は黒人男性ふたりが1歳児10人のケアをすることになる。

一昨日、あるおかあさん(白人)が子どもを迎えに来ると、半分は部屋でオムツ替え中、半分は外で遊んでいた。外で遊んでいる5人の子のうち、ひとり泣いている白人の女の子がいた。子どもの世話をしていたのは若い黒人男性のJだったが、彼は黒人の女の子を抱っこしていて、泣いている白人の女の子には「静かにしなさい」と言ったのだという。「これは人種差別だ」とそのおかあさんが保育園の管理職に文句を言っていたらしい。人種差別なんていう言葉をそんな状況で聞く、というのに驚いてしまった。確かにJの対応に改善すべき点はある。泣いている子に「静かにしなさい」と言うだけで状況がよくなることはまずない。Jはうちの保育園で働き始めて2週間。ベテランの保育士のような対応を期待するのはむずかしい。だけど、彼が人種差別をするタイプでないことは、ふだんの子ども達への対応を見ているとわかる。今週からうちの部屋を手伝うことが決まっていたので、先週からちょくちょく休憩時間などにうちの部屋をのぞきにきては子ども達と仲良くなろうと努めていた。

ウィキペディアによれば、アメリカの人種構成は、「ヨーロッパ系71%,アフリカ系12%,ヒスパニック/ラテン系9%,その他アジア系(日本人、中国人)など」となっているが、これに比べると、軍にいる人たちは、アフリカ系やヒスパニック、アジア系の人たちの割合が高いと感じられる。軍に入ることで、住むところが保障されたり、大学に行くことができたり、と様々な特典があり、それゆえ、裕福ではない層の人たちが入隊する、という現実があるのだと思う。

そんな状況のせいもあって、基地で黒人がすごく差別されている、などと感じたことはない。黒人の上司のもとで白人が働いているということも珍しくない。うちの保育園のトップも、白人だったり黒人だったりアジア系だったり、いろいろだ。

人種差別については敏感で、保育園でも、どの人種も同等に扱うように、ということを最初の研修で言われる。部屋におもちゃの人形を置くにしても、白人、黒人、アジア人など、いろんな皮膚の色のものを置くように、決して偏ることのないように気をつける。絵本を見ていても、様々な皮膚の色の人が登場する。部屋のポスターも、たとえば、黒人はこんな仕事の人、白人はこんな仕事、と子供達がステレオタイプを持つことのないようなものを選ぶ。

管理職に文句を言ったおかあさんも、本当に「人種差別」と思っていたかどうかは疑問だ。他のクラスの同僚と話していたのだが、多分、経験の浅い男性二人が1歳児をケアしていることに不安を持っているのではないか、という話になった。管理職も母親の訴えを真に受けてはいない。

ただ、この話を聞いた同僚のEが、そのおかあさんのことを「典型的な田舎の白人女だ」と言ったのにもちょっとびっくりした。Eも人種差別主義者などでは決してない。でも、「なんだかんだ言っても、アメリカは白人のための国だ」と言っていたことはある。人種差別を目にすることはほとんど(まったく)ないけど、現実にまったくないわけではなさそうだ。

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手をつなぐ

保育園のうちの1歳児クラスでは、いつも11時くらいから「お話の時間」。そのくらいの時間になると、おなかは空くし、眠いし、ということでグズグズになる子もいるのだけど、ほとんどの子はお話の時間が大好きで、「本の時間だよ!」と言うと、いそいそと床に座る(^^)。

で、たいてい11時15分頃に、食事を載せたカートが部屋の外に置かれ、お話を終わらせて、手を洗いに行く。おなかが空いてお昼を待っていた子は急いで手洗い場に行くけど、何故か友達と手をつないで行くのが好きな子がひとりいて、いつも誰かの手をとって一緒に行っていた。で、最近、その子だけでなく、別の子もマネをして手をつないで一緒に行くようになった。手をつなごう、と誘われた子も素直に応じて一緒に行く。こちらが「手をつなごうね」と言ったわけでもないのに、手をつないで手洗い場に向かう子どもが二組(^^)。

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ビデオ「ビューティフル・ボーイ」Beautiful Boxer

タイ北部の貧しい家庭で育った少年トゥムは美しい女性が好きで自分もそうなりたいという願望を持っていた。しかし、ふとしたことから、タイのボクシング「ムエタイ」で戦って勝ち、貧しい両親を助けるため、ムエタイの選手になることを決意。他人を傷つけるのが基本的に好きではないトゥムだが、よきトレーナーに恵まれてムエタイのスポーツとしての魅力を感じ、次々と技をマスターして力をつけていく。試合にも勝ち、お金を稼ぐこともできるようになるが、(女性として)美しくなりたいという気持ちをおさえることができない...

アタックナンバーハーフ」を見たころ、タイ出身の同僚に「タイにはゲイ(この言葉が適切なのかどうか疑問だけど。持って生まれた身体と心の性が一致していない人、のつもり)の人が多いのか」と尋ねたら、「すごく多い」と言っていた。アタックナンバーハーフでもゲイであることの悩みが語られる場面はあったけど、それほど深刻には感じられなかった。でもやはり自分の持っている身体と心の性が一致しないのはつらいだろうなぁ。

この話のもとになったムエタイの選手は実在するらしい。現在は性転換手術を受けて女優・モデルとして活躍されているそうで、きれいな人だ。この人にとって手術は幸せな結果をもたらしている。

手術を受けるお金がない人もいるし、自分の心と身体が一致していないということを公には出来ない人もいる。でも、その人がその人であることを認められる人でありたいなぁと思う。

トゥムがどんな人生を選び取っていくのかが、まわりの人との関わりのなかで興味深く描かれ(これが実話に基づいていると聞くと、人間の一生って本当にドラマだなぁと思う)、ムエタイがシルエットで浮かび上がる場面の美しい映画だ。

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パレスチナの子どもたちからのアピール

「パレスチナ子どものキャンペーン」の会員総会及びワークショップへ。そこで紹介されていた「国際子どもの日」(6月1日)に寄せてのパレスチナの子ども達からのアピールに、本当にそうだなぁ、と思わされてしまったので一部を転載したい。

私たちも世界のほかの子どもと同じように夢をいっぱい持っています。一番大きな夢はなにと聞かれたら、私たちにはない平和で無邪気なくらしをすることと答えるでしょう。お父さんやお母さんは私たちを愛しているし、私たちのためにいろいろなことをしてくれるけれども、パレスチナの子どもの生活は昼も夜も危険と恐怖でいっぱいです。戦車の砲撃やアパッチヘリコプターの音がいつでも聞こえるし、いつ攻撃されるかとびくびくしています。占領によって子どもたちがたくさん犠牲になっています。こんなひどい環境に生きても、私たちはそれでも世界の良心は目を覚ますに違いないと希望を持っています。だから、私たちの国では選挙をするのだと皆考え、パレスチナ人も民主主義を知っていることを知らせようとしました。

 私たちには選挙権はありませんが、民主主義がどんなものかを味わいました。家でも学校でも、そしてここ「子どものセンター」でも民主主義について習いました。新聞やテレビもその魔法の正しさをしょっちゅう言っていました。そして、パレスチナ社会全体が、女性も男性も、民主主義を実現するために選挙に参加しました。そうしたら、安全になると思ったからです。

それなのに、これから私たちは民主主義をどう理解したらよいのでしょう。いまパレスチナ社会は世界から見捨てられ、罰せられ、心理的にも拷問にかけられているのです。私たちはいま民主主義という言葉を理解できなくなっています。民主主義ってどんな意味だったのかしら、と私たちは聞きたいです。

全文はこちらで。

この問いかけにどう答えればいいんだろうか。

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本「もし、みんながブッシュマンだったら」by 菅原和孝

あたりまえを疑う社会学」で推薦されていた本。南アフリカ共和国の北、ボツワナのカラハリ砂漠でブッシュマンのグイ族の人からの聞き取りをした内容がメインだけど、自閉症の息子さんのいる家族との生活、またその家族を日本に残して研究をする者の思いとか、学問をすることの意味について思い悩んだ学生時代の話とか、読んでいて著者に共感するところがたくさんあった。

グイの人たちの言葉は、英語のように辞書があるわけじゃない。最初は通訳の人を通してグイの言葉を少しずつ覚えていく。そのうち、簡単な会話を直接できるようになる。聞き取ったことをテープに録音し、それをグイの人と一緒に聞いてひとつひとつ意味を教えてもらいながら書き起こしていく。

そうやって知ることのできたグイの人たちの生活は興味深い。動物を見たら殺すのが基本。食べるためでもあるけど、それでなくても。だからといって残酷な人たちというわけじゃない。自分だっていつライオンに殺されるかもしれないのだ。父親をライオンに殺された人の話。夫婦のほかに恋人の存在する人間関係。成人になる儀式。呪いとかムシの知らせとか。刑務所の生活(政府が特定の狩猟を禁止するなどしたため、刑務所に入ることになった人の話)。一番すごいと思ったのは踊り(ツィー)の場面。踊っているときに失神する場面が語られるのだけど、「おれは初めてツィーの精霊がからだのなかにはいりこむのを感じた。」(p.286)...そういうことってあるんだなぁ。

日本での生活とはずいぶんと違う。そういう暮らしがあるということ。菅原さんが大学で学生たちにブッシュマンについての論文を紹介したとき、ひとりの学生が正直な感想をもらしたと言う。「いやあ、こういう所に生まれなくてよかった」

そのことばは、意外なほど深くおれの心につきささった。おれたちとはまったく異なった人生を知ることが、それと比べたときのおれたち自身の生活の快適さに対する自己満足にしか行き着かないのだとしたら、人類学というガクモンは、単なる偽善にしかすぎないのではなかろうか。(p.326)

そうだよなぁ...正直、私もこういう所で一生暮らしたいとは思わないけれど、この人たちの生活に私たちの生活にはない豊かさがあるのも本当だと思う。ダンスを踊っていて神を感じる、そんなことは日本で生活している私には決して起こらないだろう。

図書館ではこの本は児童書のコーナーに置かれていた。BK1でも「対象は小学5-6年生」となっている。著者は、「これからどんな人生を選択するのか」を考える一助にと、子ども達に読んでほしいと願って書いたのだろう。

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目の錯覚

放送大学面接授業「心理学実験・実習」。担当は細田一秋先生。金曜夜の授業で5回シリーズ。今日は3回目。

Mullerlyer_figure1回目にミューラー・リヤーの錯視というのをやった。左のふたつの図形の横線の長さが同じだなんて信じられない。授業では、ふたつの図形が重なったカード(一方が袋状になっていてもう一方を引き出して使う)を使い、自分が同じだと思う長さで止めて、どのくらい錯覚が生じているかを、この羽の長さを変えて実験した。(角度を変えるというのもあるが、授業ではやらなかった。)2回目は、その実験の統計処理。で、3回目の今日はどうしてこういう錯視が起きるのか、という話。

感覚としてものを見ているのは目だけど、知覚としてものを理解しているのは脳だ。網膜に映っているそのままの大きさのものとして、人はものを見ていない。同じ大きさのものが2倍の距離に置かれていれば、網膜には2分の1の大きさの画像が映っているが、脳は同じ大きさのものだと認識している。平面に描かれているものにも奥行きを見てしまう。

おもしろかったのは「さかさめがね」。これをかけると上下がさかさまに見える。左右がさかさまに見えるめがねもあってこれをかけるとかなり気持ちが悪い。字を書こうとすると、手が覚えているから見なければ書けるけど、見ながら書こうとすると書けない。ところがこんなめがねも長期間かけていると、脳はこれに慣れてきて生活することができるようになるそうだ。もちろん、ただかけているだけではだめで、自分から世界に対して働きかけなければいけないようだけど、上のものをとろうとして、上下さかさまのめがねをかけているとおかしなことになるのだが、そのうち目的のものがとれるようになるらしい。上下さかさまのめがねを15日間かけた人の体験記 を読んでいると、だんだんそういう見え方が「普通」になってくるようだ。

立体鏡というのも使ってみた。これを使うことで、右目と左目の両目を使っているからものが立体的に見えるんだ、ということが実感としてわかった。また右目で見ている画像、左目で見ている画像というのがあるんだ、ということも。

人は誰も自分と同じ画像を見ていると思っているけど、実は同じではないのかも。

ヤフーで「錯視」で検索すると一番最初に出てきたこのページ にはいろいろおもしろいのがあります。

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本「ダーリンは外国人」by 小栗左多里

ダーリンの頭ン中」 がおもしろかったので、このシリーズを最初から読みたくなり、図書館にリクエストしたのが去年の11月。ようやく私の番がまわってきた(^^;)。で、期待に違わずおもしろかった(^^)。

とりわけ、語学オタクだというトニーさんの書いておられることは興味深い。

僕が日本語で文章を書いているとき、何語で考えているか、と聞かれることがある。答えは何語でもない。たいてい概念で考えている。で、日本語で書くとき、その概念が日本語の語彙として紙に現われてくる。(p.122)
概念で考える?うーん、どうだろう。考えているときは言葉を使っているような気がするけど。 私も、平日は起きている時間の約半分を英語環境で過ごしている。その間はかなりの部分、頭のなかは英語になっている気がする。Hello, how are you? なんていう会話をいちいち日本語にしているわけではないし。でも言いたいことをどう言っていいか、ふさわしい言葉がすぐに出てこないことはあって、言いよどんでいると、結構相手が「こういうこと?」と助け舟を出してくれる。それもうまくいかない場合は、やっぱり頭のなかでは日本語で考えている気がするなぁ。ものを考えているときは言葉を使っていると思うから、「概念で考えている」というのはよくわからない。

でも、考えてみると、言葉の使えない幼児でも「言いたいこと」はあるわけだ。毎日、1歳児と接していて、彼らが何かを私に伝えようとして、こちらも一所懸命わかろうとして、それでもうまく伝わらなくて、泣き出したりかんしゃくを起こしたり。言葉は話せなくても、子どもが遊んでいるのを見ていると「ここをこうしたらこうなって」というようなことを子どもが考えているんだなぁ、とわかることもある。となると、考えるときに必ずしも「言葉」を使っているわけではないんだ。英語で話していて、すぐに適切な言葉が出てこないときも、そのときすぐに日本語が出てくるわけじゃないから、やっぱり「概念で考えている」のかもしれない。

そのほか、違った文化環境で育ったふたりが一緒に暮らしはじめてのとまどいなどがおもしろい。笑いの感覚が違う、というのはそうだろうなぁと思う。それから、整理整頓のうまい人と無頓着な人、というのはよくある組み合わせなのかな。うちもそうだった(^^;)し、友人の話を聞いていてもそういう場合が多い気がする。いずれにしても、違うことを楽しんで仲良く暮らしておられる様子が伝わってきて、幸せのおすそ分けにあずかれる(^^)。

ダーリンは外国人
小栗 左多里著

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レディファースト

うちの保育園では基本的に一クラスに3人の保育士がいて、交替で休憩や研修の時間をとる。今日、私が昼休みをとる前に、同室の保育士Eが「その前にトイレに行かせてくれ」と言うと、もうひとりの保育士Kが「私も行きたいの。レディファーストよ。」と言って、さっさとトイレに入ってしまった。

それでレディファーストって実際に行われているのか、という話になった。Eはずっとそれを実践してきたと言う。日本に来てみんながそれをしないので驚いたそうだ。両親にそのように育てられたのでそうすることが身についていて、日本でも、たとえば電車などで女性には必ず席を譲るという。で、席を譲ろうとしたらすごく怒られたこともあったそうだ。「いくつぐらいの人だった?」と聞くと、20代後半くらいだとか。日本ではそんな若い女性に席を譲る習慣はないから、彼女はきっと年寄りにに見られたと思ってショックだったんだろうね、と話した。

別の男性(40代、黒人)にも聞いてみたら、彼も含めてアメリカ人のたいていの男性はレディファーストを実践していると思う、と言っていた。ただし、奥さんにはしないけどね、とのこと。「20代の女性に席を譲るか」と尋ねたら「それはしない。すごく疲れているようだったら別だけど。」

話していると、女性(多分30代、ヒスパニック)が入ってきたので、「アメリカの男性はみんなレディファーストを実践しているか」と尋ねると「全然そんなことないわよ。」「もしすることがあるとしたら、何か下心があるんじゃないの。」とけんもほろろ。別の女性(20代、白人)に尋ねると「人によるわね。」

リーダーズ英和にもオックスフォードやロングマンの英英にも「レディファースト」(Ladies first) という項目がない。アメリカのWikipedia で Ladies First を見ると、ある女性歌手のデビューアルバムのタイトル、となっていて、期待されるような解説は何もない。男女同権の社会で「レディファースト」は今や時代遅れの言葉になりつつあるのかなぁ。

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映画「ダ・ヴィンチ・コード」

本を読んだとき 、これが映画になったら楽しめそうだなぁと思ったのだけど、そのとおり。原作にだいたい忠実で(細かいところが違うようだけど、細かいところを覚えていない(^^;))、文字から描いたイメージを実際に目にすることができる、という感じで、ああ、こういう場面あったなぁ、と思いながら見ていた。でも、一緒に行った友人は原作を読んでいなかったので、わかりにくかったようだった。確かに話があちこちに飛ぶので、何の予備知識もなく映画を見るときびしいかもしれない。本のほうが、「この先どうなるんだろう」というのを楽しんで読み進められたかな、と思う。

ストーリーについての各国の反応が数日前の毎日新聞に載っていたけど、うちの保育園の同僚のなかにも、これを見て「何を信じたらいいんだろう」とショックを受けた人がいるらしい(夏休みバイトの大学生)。新聞には「(監督は)カトリック保守派「オプス・デイ」から、「話は事実ではない」というただし書きを字幕に挿入するよう要求されたが、フィクションであることを理由に拒否した」と書かれていたのに、映画の最後に「この物語はフィクションであり」云々という日本語字幕が入っていたのにはちょっとびっくり。完璧にフィクションだと思うか、こんな可能性もありだと思うか、キリスト教徒の人たちの印象をまた聞いてみたい。

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とっても楽しいアナログゲーム

「Passion for the Future: ゲームを斬る」で、「ドイツはアナログゲームの先進国」と書かれているのを読み、そういえば、いくつかドイツ製のボードゲームを持っていたことを思い出した。京都に帰ったとき、宇治市にある KID'S いわき ぱふ というお店(このお店は子どもに関わる人にはとても楽しい(^^))を教えてもらい、そこで買ったのだ。子どもが大きくなってそれらも人にあげたりしてしまったけど、ひとつだけ今も持っているのが ねずみとりゲーム(MäuseJAGD)。
Nezumi鬼(ネコ)がカップを持ち、サイコロを振る。サイコロと同じ色のネズミを捕まえるというだけの遊び。たとえば赤が出たとき、赤のネズミの人はすばやく尻尾を引いて逃げなくてはいけない。でも赤以外のネズミは動いてはいけない。でもって黒が出たときは全員逃げなくてはいけない。すごく単純なんだけど、結構熱くなってしまう(^^)。子どもはもちろん大人も楽しめるゲームです。ネットで買えるところがないかさがしてみたら ここで買えるようです。このゲームは本当に誰とやっても楽しめるので、興味のある方はどうぞ(^^)。

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本「お笑い裁判傍聴記」by 木附千晶他

裁判というと何やら厳粛なイメージがあるけれど、それをみごとに打ち砕いてくれる本。とにかく速く終わらせたい裁判官、やる気のない検事、居眠りしている廷吏。こんなことでいいのか...という事例がごろごろしているらしい。(もちろん、そんな裁判ばかりではなく、気合の入ったものもたまにあるらしいが。)

なるほど、と思ったのは「裁判にはふたつの事実がある」ということ。

裁判って、基本的には「事実を争う」場所じゃないですか。判決は「裁判所で認定した事実」とかって言いますけど、その言葉通り裁判には「実際にあった事実」と「裁判所が認めた事実」のふたつがある。簡単に言うと、裁判官は最初から「こういう方向で行こう」みたいな筋道を立てていて、それに合う「裁判所が認めた事実」をつくるために、正義感を振り回して「実際にあった事実」をねじ曲げてしまうわけです。(p.98)
裁判員制度が2009年にスタートするそうで、そうなると自分が裁判に関わる可能性もあるわけだけど、この本を書いた人たちはそれによって裁判が改善される、という見解には否定的だ。普通の人が判決にかかわることでプラスの面もあるだろうと思うのだけど、「裁判員全員が一致した意見を持っていても、裁判官がその多数側に入っていなければ評決は無効(裁判官3人、裁判員6人の多数決で評決を行う)」「裁判員を長期に渡って拘束することはできないから証拠調べがずさんになる」などのマイナス要素がたくさんあるのだという。

傍聴に行ってみれば、思いがけない人間ドラマが見られておもしろいですよ、と言う。確かに法廷ものドラマはおもしろい。ワイドショー的な骨肉の争いを見るのは疲れそうだけど(^^;)。でも、誰にでも被告、原告になる可能性があり、また裁判員になる可能性だってあるのだ。お上におまかせ...と思っていないで、機会があったら裁判所をのぞいてみるのもいいかもしれない。

お笑い裁判傍聴記
木附 千晶編著 / 三代目仙之助編著 / 菊池 美香編著

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