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いたずら(^^)

Saladハローウィンの今日、副園長先生がスタッフルームにいろいろな差し入れをしてくれた。

ランチの時間に、大きな丸いプラスチック容器のフタをあけると、中に入っていたのは生野菜...そしてクモ!クモが作り物であることはすぐ気づいたけど、ちょっとビックリ(^^)。
Webcake
クモの巣ケーキもあった。同僚のアメリカ人に聞いてみても、クモの巣ケーキがハローウィンの定番ということでもなさそうだけど、ネットで検索すると結構レシピなんかも載っていたから、最近流行りつつあるのかな。誰も手をつけていなかったので、せっかくのクモの巣を私が壊すのも申し訳なくて食べていないのが心残り。

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映画「ワールド・トレード・センター」

2001年9月11日、ニューヨークのワールドトレードセンターに飛行機が激突。警察官たちがビルの中の人たちの救出に向かったが、その最中、ビルが崩れ落ち、彼らは瓦礫の下敷きとなって身動きができなくなる。

瓦礫の崩れ落ちる様子、すぐ近くで発生する火災。誰とも連絡がとれないまま時間が過ぎていく。そこにいる人の苦痛と恐怖と不安とがリアルに伝わってきた。

米国だけが被害者か」 とか、「社会派オリバー・ストーンにしては...」というようなレビューを読んでいたので、それほど期待していなかったのだけど、見に行ってよかったと思う。ニュースを見聞きするだけでは私にはここまでの状況は想像できなかったから。

ユナイテッド93」よりもいいかな、と思うのは、犯人が誰、というような描き方をしていないことだ。犯人が誰であったとしても、あんな行為をした人たちは許されない。犯人が誰なのかを追及するのではなく、ただああいう馬鹿げた行為の犠牲となった普通の人たちに焦点があてられる。仕事上ワールドトレードセンターにいた人たち、安否を気遣う...気が狂いそうになるほど心配するその家族。中に残された人をなんとか助けようとする人たち。人の命をなんとも思っていないような人がいるのも事実だけれど、ひとりの人間の命を必死に助けようとする人がいるのも事実だ。

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スピリットウィーク

同僚のMの娘さんは今、高校3年生。彼女の高校では、今週は "spirit week" といって、毎日いろんなテーマで楽しいことをしているようだ。
"Wacky tacky day" は、とにかくヘンな格好をしてくる日。以前、「ミスマッチディ」というのを書いたことがあるが、それと同じものだろう。
おもしろいな、と思ったのは "Gender bender day" 。これは性別にこだわらない格好をしてくる日らしくて、スカートをはいた男の子達が何人もいたとか(^^)。
最終日の今日は bonfire (キャンプファイヤーのようなもの)を楽しむことになっているらしい。

このほか、「自分の好きなスポーツチームを応援する日」だの、「先生と生徒が交代する日」だの、各学校で工夫をこらした日が設けられているようだ。日本では、 「ピアス、茶髪、ルーズソックスは禁止」なんていう高校も少なくないと思うけど、こんなふうに思いっきり楽しむことがあってもいい気がする。 「茶髪とピアスを禁止する大学にいたっては彼らには理解しがたいだろう。私でも信じられない。

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すみ絵 Sumie

ピアニストの秋吉敏子さんが、米国ジャズ界に貢献した人に贈られるジャズマスターズ賞というのを受賞された、と今日になってラジオで聞いて知った。これまでマイルス・デイビスとかソニー・ロリンズなどの大物が受賞していて、日本人では初の受賞だそうだ。

秋吉敏子さんという名前を聞いて、そういえば学生時代フルートを吹いていた頃、先輩に「秋吉敏子とルー・タバキン ビッグバンド」(だったと思う)のレコードを貸してもらったなぁ、と思い出した。そして、ラジオのトークのなかで「すみ絵」という曲名が出て、その曲をはっきりと思い出した。それまでの私にとって、フルートはわりとキラキラした優しい音色の楽器、というイメージがあったのだけど、ルー・タバキンのフルートは太い低い音から高い音まで自由に動き回り、今までのフルートのイメージとは全然違っていた。

試聴できるところがないか探してみたけど、このサイト の「すみ絵」はピアノによる演奏でフルートがなく、このサイト のは、フルートは入っているものの、演奏の雰囲気が全然違う。どちらのサイトのものも、調も違っている。

学生時代に先輩のレコードから録音させてもらったカセットテープをひっぱりだしてしばし聞き入った。ルー・タバキンのブレスの音で始まり、終始その息遣いが聞こえる。聞いていた次女は「尺八かと思った」と言っていた。フルートの自由な動きの下にベースが流れ、やがてピアノがかぶさっていく。私はこの後ジャズにのめりこむということはなかったし、フルートも全然うまくならなかったけど、これは言ってみれば「衝撃の一枚」だった。アルバムのタイトルが多分「SUMIE」だったと思うのだけど、はっきり覚えていない(「衝撃の一枚」なのに(--;))。 レコードを買っておけばよかったなぁと思う。もう廃盤で手に入らないだろうなぁ...

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映画「トランスアメリカ」

性同一性障害を持つ主人公ブリー(というのは女性名で、両親からもらった名前はスタンリー)が、性転換手術を目前にして、自分には17歳の息子がいることを知る。スタンリーであったのは過去のこと、と関わりたくないブリーに対し、きちんと清算すべきだ、とカウンセラーに言われ、しぶしぶロスからニューヨークの留置場にいる息子トビーを迎えに行く。ロスで役者になるのが夢、と語る息子と、現在のその荒れた暮らしを見て、彼を放っておけなくなったブリーは、トビーをロスまでの車の旅に誘う。

ブリーはトビーに自分が父親であることを明かさないままで、トビーはブリーを単なるおせっかいなおばさんだと思っている。そんなふたりが旅を通じて少しずつおたがいを知っていく。旅の途中で出会う人々。旅のエピソードには意外な展開もあり、移り変わる風景とともに楽しく見ることができた。アメリカはやっぱり車で旅してみたいところだなぁと思う。

性同一性障害である自分を認めてくれない親に対して反発を感じてきたブリー。しかし、自分はトビーにとって理想の父親ではないことも感じている。荒れた暮らしをしながらも純粋な気持ちを持つトビーと、心優しく誇り高いブリー。ふたりのキャラクターが魅力的で、私好みの映画だった(^^)。

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本「食品の裏側」by 安部司

おもしろかった。著者はもと食品添加物商社のセールスマン。添加物のすごい効き目に感心し、日本一の添加物屋になろうと決心。日々、添加物について学び、現場にでかけて何が必要とされているかを知り、適切なものを開発、売り込んでいく。添加物のおかげで安くて美味しいものができる。この仕事に誇りを持って嬉々として取り組んでいたのだが、ある出来事をきっかけとして、この人は添加物屋をやめてしまう。

私は、添加物についてはある程度気をつけているつもりだった。醤油,味噌、みりんなどの基本的調味料はまともなものを買うようにしているし、食材はできるだけ生協で買う。それでも知らないことはいろいろあった。ワケのわからないカタカナが並んでいるような食品はなるべく買わないようにしていたが、「たん白加水分解物」「ブドウ糖果糖液糖」などのように日本語になっているものにはそれほど気をつかっていなかった。それらは「調味料(アミノ酸等)」と同様、あまりにも多くの食品に含まれているし、名前から受ける印象はそれほど悪いものには思えないからだ。

一括表示のカラクリにも驚いた。化学調味料として何種類使用しても、同じ目的のために使う添加物は「調味料」と一括表示することが認められている。独特の味を出すために、調味料は何種類も使用されているのが普通なのだそうだ。そして、それらは、「グルタミン酸ナトリウム、アミノ酸、5'ーリボヌクレオチドナトリウムグリシン」と書くかわりに「調味料(アミノ酸等)」ですんでしまう。メーカーは、一括表示にするためにわざわざ余計な添加物を入れることまであるという。グリセリン、プロピレングリコール、とふたつの軟化材を用いれば、具体的な成分名ではなく、「軟化材」と表示するだけですみ、消費者に与える印象がソフトになる。乳化剤、PH調整剤、イーストフードなどについても同じだ。

保育園児に無果汁ジュースを作る過程を見せる講演もおもしろそうだった。この本は、添加物の毒性についていろいろ書かれているわけではない。しかし、それを作る過程を見ていれば、自分では食べる気にはなれない、というものは..

今日は、放送大学の面接授業が遠いところであり、帰りが遅くなるので、夕食は近くに新しく出来たレストランですませた。農家と契約した野菜を使い、調理に良質の水を使っていることをうたい文句にしているレストランだけど、「あのカット野菜(?)は大丈夫なのかな」などと娘達とあれこれ考えてしまった。そのあと、スーパーに寄って、いろいろな食品の表示を見てしばし盛り上がった(^^;)。

事情を知っても、添加物とまったく無縁の生活を送ることはできないだろう。お弁当などにはどうしても「レンジでチン」の冷凍食品も使ってしまう。生協で買っているものでも、結構いろいろな添加物は入っている。この本を読んだからといって、我が家の食生活が劇的に変化することはないけれど、知ることができてよかった。少なくとも、いつも冷蔵庫に常備していた生クリームの代用品ー植物性油脂を原料としたものーを今日は買うのをやめてしまった。これは生クリームよりも長持ちするうえ安いので、冷蔵庫に常備しておくと、思い立ったときにすぐ、キッシュや、かぼちゃのスープを作ったりするのに便利で重宝していたのだけれど...お弁当の冷凍食品はすぐにはやめられなくても、できるだけ添加物の少ない食生活をおくるようにはしたいと思う。

食品の裏側
安部 司著

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きげんのいい子ども

"He is a happy child." と言った場合、「彼は幸せな子どもである」というよりも、「彼はきげんのいい子どもだ」とか「明るい子だ」と訳すほうが原文のニュアンスをよく伝えていると思う。「幸せな子ども」というと、与えられた環境などがよくて恵まれた子どもだ、という印象を受けるが、"He is a happy child." というのは、だいたいは、彼自身が幸せを感じているような子ども、機嫌の良い子という意味で使われる。

オックスフォード英英辞典で happy をひくと、一番目に出てくる定義は、feeling or showing pleasure ;pleased(喜びを感じたり示したりすること、楽しい)となっている。そして、六番目に lucky (幸運な)という定義が出てくる。「恵まれた子ども」と言いたい場合は、lucky child と言う方があっているんじゃないかな。

うちのクラスにも happy baby がいる。いつもニコニコしていて、ひとりのときはひとりできげんよく遊び、友達がいれば友達と一緒に笑いながら遊ぶ。このキャッキャッという笑い声がまた可愛くて、聞いているこちらも幸せな気持ちになる(^^)。好きなものを見つけると目を輝かせ(保育者が園庭でバギーを出してお散歩の用意を始めたときや、何か目新しい活動が用意されているときなど)、全身で喜びを表現。もちろん、眠いときや、おなかがすいたとき、頭をぶつけたときなどに泣くことはあるけれど。

その一方で、よく泣く子もいる。おむつもぬれていないし、おなかもすいていないはず。それなのに泣くのは、たいていは「かまってちょうだい」というサイン。「抱っこして」「遊んで」。私はこういう赤ちゃんも好きだけど、クラスには8人の子どもがいるから、いつもその子と遊んでいるというわけにはいかない。そういうときにノンストップで泣き続けられるのはやはりきつい。

ハッピーチャイルドを持った親はやはりハッピーになるだろう。幸せは伝染する(^^)。自分の子どもがハッピーチャイルドでなくても、自分がハッピーならそれは子どもに伝染する...かな?

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聞こえない音

tabe さんの日記で紹介されていた「純音を聞いてみよう」というサイトで、私には聞こえない音の範囲があることを知った。

「人間の耳が聞くことのできる音の高さの範囲(可聴領域)は約20~20,000Hz」だそうだけど、16000Hz の音を再生しても私には何も聞こえない。中3の次女に「えぇ?これが聞こえないの?キンキンしてすごく耳障りな音だよ」と言われ、ショック。年齢とともに可聴領域は狭くなっていくらしい。耳鼻科で検査されるという 125Hz から 8000Hz については問題はないけど、いったいどのくらいの範囲の音が聞こえるのか知りたくなり、次のサイトでソフトをダウンロードして試してみた。

可聴周波数域チェッカ

その結果、私に聞こえるのは70Hz ~ 15750Hz くらい。次女は20000Hz 以上聞こえると言い、長女も17800Hz くらいまで聞こえるようだ。でも、低い音が聞こえる範囲は私とあまり変わらない。

視力の良し悪しは文字通り目に見えるからわかりやすいけど、聴力の良し悪しについては、日常生活に支障のない限りはそれほど気にならない。でも、実は私には聞こえない音があり、見えないものもあり、知ることのできないものや、知っても理解できないものもたくさんあるのだろう。自分には聞こえないけど他の人には聞こえる、そんな音があるなんて考えてみたことがなかった。つくづく、私って傲慢にできているんだな、と思う(^^;)。

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本「世にも美しい数学入門」by 藤原正彦・小川洋子

しばらく前、「博士の愛した数式」という映画をDVDで見た。「僕の記憶は80分しかもたない」という設定にどうも現実味が感じられなくて、あと、中学の数学の授業風景にも現実味が感じられなくていまいちのれなかったのだけど、話にでてきた数学の話題はおもしろかったので、原作者と数学者の対談であるこの本を読んでみた。

友愛数、完全数、オイラーの定理。確かに、この世には不思議なことがたくさんある。神様はこの世界を作ったときに、いろんな美しいものを隠した。それを見つけていく喜び。世の中の役にたつからではなく、ただ自分で答えを知りたいだけ。私自身は、証明されうるかどうかもわからない命題に一生を費やしたり、今わかっている最大の素数よりより大きい素数を見つけ出す、といったことに夢中にはなれないけど、それに夢中になってしまう人がいる、ということはわかる気がする。私のまわりにいる数学の好きな人たちも、そういうことを語り始めると、生き生きする、というのを見てきたから(^^)。

ただ、この藤原正彦さんという数学者の方が、数学の美しさにこだわるあまり、「美しいものを子どもの頃から見ていないと数学の天才は出ない」というようなことを話しておられるのはちょっとどうかな、とは思った。藤原氏は、ラマヌジャンという天才の生まれたインドへ行ったが、建物も風景も全然美しくない。これでは「数学には美意識が必要」という彼の持論が覆されてしまう、と、もう一度インドへ行って、今度は美しい寺院を見つけ、ラマヌジャンが美しい定理をたくさん発見したことが腑に落ちた、のだそうだ。もしかするとそれは正しいかもしれないけど、これは藤原さんの感じていることを具体的な例をあげて示しているだけで、証明にはなっていない。日本人が神仏にひざまずく心を持っていることも数学の天才が生まれる土壌になっている(確かに日本には関孝和のようにすごい人もいたわけだけど)というような話も、日本人の素晴らしさをちょっと強調しすぎな感じはした。

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映画「13歳の夏に僕は生まれた」Quando sei nato non puoi più nasconderti

イタリアの北部に住む裕福な家庭の少年サンドロが、父親とその友人とともにヨットクルーズに出かけ、過って海に転落。父親たちはしばらくそのことに気づかず、溺れかけた彼を助けたのはイタリアへの不法移民がたくさん乗り込んだ船だった。船をとりしきる密航業者への警戒感から、イタリア人であることを悟られないようにしようとするサンドロに力を貸してくれたのはルーマニア人の青年ラドゥで、サンドロは彼とその妹アリーナと親しくなっていく。

サンドロが育った環境では、まわりにいるのは白人ばかりではなかった。級友にも父親が経営する工場の従業員にもそういう人たちはいたし、彼はそれらの人たちと違和感なくつきあってきた。でも、密航船に乗り、収容所の生活を経験することで、その人たちのことを考え始める。

私は、単純明快な映画が好きなところがあるので、この映画の終わり方は私好みではない。消化不良の感じが残ってしまう。でも、それが現実なのかもしれない。明快な結末だったら、ウソになってしまうのかもしれない。ストーリーに力があってぐんぐん引き込まれたし、知らなかったことに気づかされた。世の中の矛盾と、それをどうすることもできない自分の無力さ...13歳のサンドロも大人の私も同じだ...

(以下ネタバレ)

続きを読む "映画「13歳の夏に僕は生まれた」Quando sei nato non puoi più nasconderti"

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あったらいいな

中3の次女が持って帰ってきた学年便りに、国語科の先生から「プレゼンで良いウリコミを期待しています」という一文があったので、「これ何?」と尋ねた。

次女:なんか架空の商品を作って、それの売り込みをするんだって。
母:へぇ、おもしろそう。
長女:あたし、「どこでもドア」がほしいな。
母:どこでもドアはほしいけど、でもアイデアに独創性がないからいい点数はもらえないかもね。
次女:うん。...で、売りこみの対象は中学生でなくても誰でもいいってことなんだけど、私は中学生に売り込みしようと考えてるの。
母:たとえば?
次女:...安眠枕とか。
母:安眠枕?そんなのが必要なの?いつでもどこでも寝てるじゃん。
次女:寝ようと思ってからすぐに寝られないときがあるんだよ。
母:寝すぎなんだよ。
母:ねぇ、食器を適当に放り込んでもちゃんと並べなおしてくれて洗える、そういう食器洗い機があるといいな。
次女:それはおかあさんの希望でしょ。中学生じゃないじゃん。
母:じゃあさ、安眠枕じゃなくて、枕の下に紙を敷いて寝ると、その紙に書いてあったことが寝ている間に覚えられる、なんていうのはどう?
長女:それいいなぁ。
次女:なんかうさんくさい。
長女:うさんくさくてもいいじゃん。現実になくても、夢のある商品のほうが。
次女:勉強は努力でしょ。
母:(次女からそんな言葉を聞くとは(^^;)...と思いつつ)じゃあ、旅行とか行くときに本をたくさん持って行きたいけど、重いしかさばるじゃん。あれをなんとかしてくれるものがあるといいな。
長女:スモールライト。
母:ああ、そうか...やっぱりドラえもんって偉大だねぇ。

はてさて、結局、次女はどうするのかな。

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個人的に気になること (Pet peeve)

今日、スタッフミーティングで、"Director/Management's 10 pet peeves" (管理職の嫌いな10のこと)というのが発表された。ここ数ヶ月で保育園の管理職の顔ぶれが大幅に変わり、でもって、保育者のクラス替えなどもあって、今、保育園はちょっと混沌とした状態にある。そんななかで、新しい管理職の思惑をわかってほしい、という意図だったようだ。

"pet peeve" は、辞書をひくと、「常に不平の種となるもの、とりわけいやな(腹の立つ)もの、こと」となっている。保育園の管理職のいやがるワーストスリーは、3:お金のためだけに働くという態度、2:病休の電話、1:ゴシップだそうだ。そのほか、「質問されると『知りません』を繰り返す」(知らない場合は、『調べます』という態度が必要)、「いつもこういうやり方でやってきましたから」という答え方(今までのやり方がベストなのかどうかを確かめよ)など。それを管理職たちが劇仕立てでやってくれたのは結構可笑しかった(^^)。

wikipedia の定義によれば、"pet peeve" とは、「個人的に気に障ること」で、必ずしも論理的なものとは限らないようだ。たとえば、コピー機のフタを開けっ放しにしておくのが許せない、とか、ちょっとした言葉使いの「まちがい」とか。他の人にはそれほど気にならないのに自分には気になってしかたない、というようなものに使うらしい。

今日発表された「管理職たちの気に障ること」は、まあ当然のことかな、と思うようなものだけど、私の pet peeve は何かなぁ。「誰も見ていないのに大音量でつけっぱなしのテレビ」(これは職場の休憩室で時々ある)とかかな。あと、「清潔」ということに関しては人によって許容範囲がずいぶん違うと思う。たとえば、私は、給食のおかずをとりわけるお玉をシンクの上にボンと置かれるのはいやだ。(シンクはいろいろなものが置かれるので、いつも清潔というわけではないー私から見ると)でも、コーヒーカップを洗うのに、洗剤を使わずに水洗いだけでも平気だけど、次女は口をつけたものは洗剤で洗いたいと言う。

他の人にはたいしたことじゃないのに自分には気に障ってしかたないことって何かありますか(^^)?

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付箋紙ソフト PcHusen

パソコンがこわれてから必要に応じて少しずつ必要なソフトを入れてきた。で、やっぱり付箋紙ソフトはほしいなぁと思い、以前使っていたATnotes を入れようとしたら、作者の方が公開を中止されたようで...。ダウンロードはできるようですが、作者の方が公開をいやがっておられるのを使うのも気がひけて、何かいいものはないかと探したところ、この PcHusen というのを見つけた。

Pchusenとにかくメモをデスクトップにはりつけられればよく、シンプルなものをさがしていた私にはぴったり(^^)。こちら のページからダウンロードして解凍するだけで使えるし、日本語化する必要もないので、ATnotes よりも簡単。タスクトレイのアイコンをダブルクリックすると付箋が登場(色が毎回変わる)し、その付箋をダブルクリックして、必要事項を書き込んだり、コピーしていたものを貼り付けたりする。付箋の色やフォントを後から変えることも可能。長いメモは一行だけ表示させることもできる。他にもいい付箋紙ソフトはあるのかもしれないけど、これはとりあえず私には便利なソフト(^^)。

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悪口

3-5歳児の部屋で知ったのは様々な「悪い言葉」(^^;)。

初めて部屋に入った日に、子ども達の問題行動を記録するノートを見せられた。そこに "(Somebody) called names" という表現があった。
「"call names" って『名前を呼ぶ』ことの何が問題なわけ?」って私が訊くと、「"call names" って汚い言葉を使うことよ。知ってるでしょ。」と言われた。

知らなかった。辞書をひくと、name を複数形で使って、悪口という意味があるようだ。
"call somebody names" で「誰かの悪口を言う」という意味になる。中学の時から英語を学び、基地に7年勤めていても、3歳児の知っているこんな言い回しを知らなかったのだ(^^;)。

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かんしゃくを起こす子

これだけは知っておきたい保育の禁句・保育の名句という本を読んだ。幼稚園の園長先生などをされた方の書かれた本だけど、「うーん...」と思ってしまうようなことが多かった。「こんな言い方をしてはいけない」とか、保育者ならみんな(理想としては)わかっているようなことが多いけど、現実に問題行動が起きたときにどう対応するのか、というのはやはりむずかしい。

たとえば、「自分の思い通りにならない時に、すねて、通常の行動をとらなくなり保育者を困らせる子が時にあります。」(p.162) として、誰彼なく見境いなしに八つ当たりして暴れる子の例を出しておられる。

私の担当したクラスにも、自分の思い通りにいかないと、椅子を倒したり、クレヨンを投げ捨てたり、誰彼なくたたいたりする子がいた。その行動は、誰かがその子のおもちゃををとったとか、ちょっとしたきっかけで起こり、いったん起こると、原因となった子があやまったとしてもおさまらず、危ないので、ひとりの保育者がその子につきっきりにならざるをえない。そういうわけで事務の人に電話をして管理職にきてもらって園長室でその子と話をしてもらったりする。

この本の著者の場合も、「こんな子を園長が担当することがよくあります」と書かれている。

で、園長に強くしかられるだろう、と覚悟して入ってくる子に対し、この園長先生はしばらく何も言わず、まったく違う話をするんだそうだ。虫の好きな子には虫の話、別の子にはディズニーランドの話、など、楽しく話したり遊んだりし、最後に注意をすることもあれば、注意をしないこともあるという。こんなことが2,3回続けば、「園長はしからない」ということを理解して園長のいうことを素直にきいてくれるようになるという。長い目でみることが必要だ、と。

確かに長い目で見ることは必要だと思うから、こういう対処の仕方がまちがっている、ともいえないと思うけど....

私の担当したクラスにいたAの場合、父親が長期出張に行ってからその行動が始まったのだという。誰も何もしていないのに、突然、目に涙がたまって、暴れだす、ということもあった。どんな事情があっても、人を傷つけてはいけない、ということをわかってほしい、と思ったけど、むずかしかった。ある日、彼は園長先生のところに行ってママに電話をしたかったらしいが、その日対応してくれた副園長先生が「ママに電話はしない」と言うと、相当暴れたという。しかし、5分くらいするとかんしゃくもおさまり、やがてはちらかしたおもちゃやらなにやらを片付けたそうだ。

彼が落ち着いているときには、家のことを話してくれたり、楽しめる活動もあったのだけど、いったんかんしゃくが起こると、どう対応していいかわからなかった。
私が別のクラスに移ってからも、時々、園長室に向かう彼と保育者を見かける。こういう子にはこういう対応を、という完璧なマニュアルなんてないんだろうな。この本の著者のようなやり方もありなのかもしれない。この子の行動がすぐに変わることはないだろうけど、この子が「自分はダメな子」だと思ってしまうこともないだろうから。

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赤ちゃんの部屋

前回の記事に少し書いたのだが、結局、0歳児後半(6ヶ月ー12ヶ月)クラスに移ることになり、昨日、今日と、数時間ずつ入った。この年齢は人見知りする子がいる場合も多いのだけど、そういう子がいなくて(男性はダメ、という子はいるようだが)、おだやかな赤ちゃんが多い。意味のある言葉を話す子はまだいないけど、泣いたり笑ったりでコミュニケーションできる赤ちゃん達。そういうのを見るのも楽しい。ただ、1歳児クラスや大きい子のクラスに比べて、どうしても、食事やオムツ替えなどの日常的なケアが中心になり、できる活動もかなり限られてしまうのは残念...なんて言ってないで、何か0歳児が楽しめる活動をさがしたり考えたりしなくちゃね。

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自我はタマネギか

放送大学の後期授業がスタート。今学期は「自我の社会学」「人格心理学」「比較政治学」、あと面接授業をふたつ取っている。前ふたつの科目は、そろそろ卒論のテーマをしぼりたいと思って取った。二ヶ国語を話す家庭で育つ子どもがどういうふうに自我を形成していくのか、というあたりが私の興味のあるところだけど、どんなふうにアプローチしていいのかわからないのだ。

この2科目とも月曜の授業で、「人格心理学」のほうはテレビ録画したものをまだ見ていないが、「自我の社会学」はラジオで、夜7時からだったので聞くことができた。

そのなかで「自我はタマネギのようなもの」という説明がでてきた。タマネギの皮を剥いていけば、芯のようなものが出てくるかと思っても、最後まで何も出てこない。自我もそれと同じで、自分とは何か、と問い詰めていっても、結局は何もでてこない。そして、この剥いて捨てた皮が自我を形作っている。皮は他の人々の期待を意味する。親、友達、先生などの期待の組み合わせが自我を作り上げている、というのだ。

聞いていて、「どうしてそんなことが言えるのだろう?」と思ってしまった。自分を問い詰めていったら、本当に何も残らないのだろうか。「我思う、ゆえに我あり」とデカルトが言った、すべてのものを疑っても、疑っている自分自身の意識だけは疑うことができない、そういう「近代的自我」をどうして簡単に否定してしまうのだろうか?「自我はタマネギのようなものである」という命題は何も検討されず、ただそれが正しいものとしてと示されるだけなのだ。

自我が社会的な側面を持つことは確かだと思うけど、周りの人の期待で自我が形作られている、というのはすんなりとはうなずけない。周りの人は自分にこんな期待を寄せるけど、でも私は違うんだ、そう思う「私」はあるんじゃないんだろうか。

ここ数年、私の自我は安定していた。保育園の1歳児クラスのリーダーとしてうまくやってきたと思う。子ども、親、同僚との関係もうまくいき、これぞ私の仕事、と思っていた。

で、「3-5歳児クラスを持ってみろ」と言われ、それはうまくいかず、1歳児クラスにもどしてもらうよう頼んだが、結局、今日、「0歳児後半クラスを持つように」と言われた。私は1歳児クラスをほぼ6年担当していたのだけど、園長先生は同じ人を同じポストにあまりに長い期間つけておくのはよくない、と考えておられるようだ。

0歳児クラスでもまた試行錯誤を繰り返すことになるのだろう。もしうまくいけば、私は自分を評価できるけど、なかなかうまくいかなければ、私は自分を価値のないものと感じるのだろうか。自分を「役立たず」と完全に否定してしまうことのないように、どこか自分にいいところを見つけて自分を守ろうとするだろう。そう思うと、自我はタマネギじゃない。守らなければいけない自分がいる。

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