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パソコン依存症

今日はうちのクラスの同僚Tの最後の日。彼はうちの保育園に約3年在籍。これはここでは長いほう。最初はプリスクールクラスにいたが、すぐに0歳児後半クラスに移った。結構長く勤めた人だから、管理職がポットラックを開いたりするかな、と思っていたけど、何の動きもないようなので、昨日、やっぱり何かしてあげようと思って、枠付きの色紙を購入。その枠に、彼が担当した子供たちの写真を貼り付け、今日、保護者や同僚達に一言ずつ書いてもらうことにした。私は1歳児クラス、彼が0歳児後半クラスだったので、私は彼の担当した子ども達のほとんどの写真を持っている。彼は仕事熱心というわけではなかったけど、子ども達には優しい人だった。

Goodbyecardまずは現在のクラスの子ども達の顔写真のファイルを作成。次に、彼が以前担当したと思われる子ども達の写真をパソコンから拾い出し、顔の部分を切り出して小さなサイズにして、ワードに貼り付けていく。ようやく貼り付け終わって、まずは上質紙に印刷。プリンタの調子がよくないことがあるので、写真用紙に印刷する前に様子を見ようと思ったのだ。プリンタの調子は大丈夫そうだったので、いざ写真用紙に印刷しようとしたらパソコンがフリーズ!どうにも動かないので仕方なく終了させたら、長時間かけて作ったワードドキュメントはパーになってしまった(>_<)。さすがにもう一回、ファイルを作る気力はなかったので、上質紙に印刷したものを枠に切り張りして完成。写真用紙でないのは残念だけど、私としてはなかなか素敵なものができたと思っている(^^)。

それにしても、先週だったか、ネットにつなげなくなって、いろいろ調べた結果、結局はNTT側の故障だったり、今日もまた一時ネットにつなげなくなったり。いろいろなことでかなりパソコンに依存した生活をしているので、パソコンが不調になったりネットにつなげなくなると、ずいぶん影響を受けてしまう。便利なんだか不便なんだか。いや、パソコンもネットも便利なのは確かなんだけど、頼りすぎは禁物なんだろうな...

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放送大学面接授業「政治学文献購読」

今日で4回目。毎週日曜、1時間(135分)ずつの授業で、来週が最終回。読んでいるのは篠原一著 「市民の政治学」。 一読しただけではわかりにくいところもあるが、わからないところを先生に解説してもらえるのでなんとかついていっている。

なんといっても生徒は私ひとり!第一回目のとき、教室に他に誰もいなかったので、あれ?と思ったら、先生が来られて「登録したのが私ひとりだった」と告げられた。他の学習センターでも同名の講座が行なわれているから(講師の先生は違う)、放送大学としては、こんなに登録者が少ないなら私を他のセンターにまわすこともできたのではないかと思うけど、そうなると日にちや時間が変わってくるので、私としては申し込んだ時間でやってもらえるのはありがたい。この講座は5回で5000円。つまり1回1000円だけど、先生の講師料が1時間(135分)で1000円以下ということはありえないだろうから、放送大学としては赤字講座になるわけだ。その太っ腹のおかげで、私は1回1000円でマンツーマンの指導が受けられ、わからないことをチマチマと質問し、先生も丁寧にわかりやすく答えてくださって、実に贅沢な時間を過ごしている(^^)。まあ、確かにもう少し仲間がいたほうがおもしろいかな、とは思うけど(先生はもっとそう思っておられることだろう(^^;))...

今日はポピュリズムについての話で、大衆の人気取り的な政治家が出てきている現状について見た。小泉さんにしても、「自民党をぶっこわす」とか「聖域なき構造改革」とか、耳障りのいいキャッチフレーズで人の心をひきつける。フクザツなことをわかりやすい言葉で表す。その危険性。石原都知事もそうだ...

「世の中に対して不満を聞くことが多い気がするのに、どうして自民党に投票する人があんなに多いんでしょう」と訊いたら、「やっぱり自民党の人たちは腰が低いです」とのことだった。ふだん傲慢でも、選挙となれば、実に腰を低くして、人々のところに出て行く。それがうまい。それに比べて、共産党とか社民党とかは、言っていることは正しい感じがするけど、上から啓蒙してやろうという態度がありありで鼻につく。それに反発を感じる人は多いのじゃないか...と。なるほど、と思ってしまった。

今期は放送授業で「比較政治学」をとっているのだけど、これがさっぱりわからない(--;)。ラジオの授業もテキストをほとんどそのまま読んでいるだけなので、わからないところはネットで調べたりしているが、それでも解決できないところがある。誰がどんなことを言った、というだけの話で、それを覚えることを期待されても、なかなか意欲がわかない、というのが正直なところだ。その点、やっぱり面接授業はいい。来週は討議デモクラシーについてで、楽しみ(^^)。

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青森県立美術館「縄文と現代」展

青森県立美術館は、今年の7月に、縄文時代の住居跡三内丸山遺跡の隣に建てられたばかり。そんな事情から「縄文と現代」という切り口での展覧会が企画されたようだ。

Aomoriart数々の縄文式土器と現代アート。そのつながりをすごく感じた、というわけではないが、現代アートは単純におもしろかった。

コーネリアスというグループの映像作品。現代アートというのは単に「絵画」とか「彫刻」だけじゃなくて、映像と音との組み合わせでおもしろいものが生まれてくるんだなぁと思う。絵画にも真島直子さんの鉛筆画などおもしろいものがあったが、立体的な作品におもしろいものが多かった。間島領一さんの「まじまのからあげ」とか。

立体的、というだけじゃなく、そこの空間全部を使った作品(インスタレーションというらしい)も楽しかった。小沢剛さんの「コロボックルは君に語りかける」、村山留里子さんの「ガラス亡霊夫人」、岡本光博さんの「PTSD Aomori」など。ここでないとできないなぁ、というようなもので、美術館の空間が効果的に使われている。東京で土日に美術展にでかけると、人ごみでゆっくり見られないことを覚悟しなければならないけど、ここではゆったりとアートにひたることができた。天才の豊かな発想を楽しませてもらう感じ。

縄文式土器や土偶も改めて見るとおもしろかった。人間はこんな昔から、装飾を楽しんできたんだなぁ、と思う。必要最低限の土器を作るのではなく、それを飾る。遊ぶ。古代の人たちのゆとり...

この「縄文と現代」展のために青森県の高校生たちが作成したポスターがまたよくできたものばかりだった。それぞれの作品の下に、このポスターを作った思いが書かれているのだけど、なるほどーとうならせられた。

常設展も充実している。シャガール、マティスのほか、青森出身の棟方志向、奈良美智など。すみからすみまで楽しめる美術館だった(^^)。

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映画「トンマッコルへようこそ」

1950年代、朝鮮戦争で連合軍と人民軍が争っていた頃。山奥の村トンマッコルに連合軍のアメリカ兵が墜落。続いて、連合軍の2人の兵士、人民軍の3人の兵士も迷い込んでくる。アメリカ兵とは言葉が通じないし、後から来た兵士達は言葉は通じるけど、おたがいひどくいがみあっていて、村人たちには何がなんだかわからない。村人たちは国内で戦争が起こっていたことなど知らなかったのだ。

笑顔でゆったりと暮らしている村人たちと生活をともにするなかで、緊張していた兵士達の心もほぐれていく。戦いの様子はシリアスに描かれるのだが、村人達のなかにいると、そのシリアスさが可笑しく見えてきてしまう。怖い場面が突然ファンタジックな場面になったりで、こういう作り方を嫌う人もいるかもしれないけど、私は結構はまってしまった(^^)。アメリカの笑いのセンスはなんか違うなぁと思うことがあるけれど、この映画では何回も笑ってしまった。

笑いながら、人が争うことのばかばかしさを感じさせられた。人の笑顔が素敵だなぁと思える映画だった。

印象に残ったのは (以下ネタバレ)

続きを読む "映画「トンマッコルへようこそ」"

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準備ができました(^^)

0歳児後半クラス(6ヶ月~12ヶ月)の子どもは、たいてい離乳食を始めている。うちの保育園だと、まずベビー用シリアル、ついでいわゆる市販のベビーフード(ジャーフードと呼んでいる)を一品目ずつ増やしていく。まずはフルーツ(もも、なし、アップルソースなど)、野菜(にんじん、さやいんげん、グリンピース、さつまいもなど)、それから肉(チキン)。でもって、9ヶ月くらいから、親の希望により、1歳児以上クラスの子どもたちが食べているのと同じメニューで、それを細かく刻んだり、小さめにカットしたり、という普通の食事(テーブルフードと呼んでいる)を食べるようになる。

ベビーフードの子どもは、ひとりずつ、保育者の膝に座らせて保育者が食べさせる。テーブルフードの子どもは、ハイチェアやローチェアに座って、基本的には自分で食べる。

先日ハイハイを始めたK(9ヶ月かな)は、今、テーブルフードに興味津津。そもそも、ハイハイを始めたのも、テーブルフードに近づきたい、というのが大きな動機になっている。テーブルフードを食べている子ども達をおすわりして眺めていたが、彼らが落とす食べ物に興味をもっったようで、なんとかそれをつかもうとして、おすわりの姿勢から手を前へ、前へとすすめるうちに、食べ物に到達。Kは今にもハイハイを始めそうだったので、おもちゃを少し遠くのところにおいて保育者がハイハイを促したりしていたけど、なかなかそれにはつられてくれなかった。やっぱり自分から興味をもったものが一番(^^)。

ハイハイができるようになった今は、テーブルフード用の椅子などをセットしはじめるとこちらにやってきて、おこぼれをねらっている(^^;)。床に落ちたものを口に入れさせるわけにはいかないので、そこから遠ざけて気をそらすようにしているが、こうなったらもうテーブルフードを食べてみてもいい時機だろう。

先週、遅番の保育者Tに、Kの様子を両親に話してもらうように言ったら、両親は「1歳まではテーブルフードを始めない」なんて言っていたそうだ。親にはいろいろな考え方があり、アレルギーが心配なので離乳食はゆっくりすすめたい、という人もいるので無理強いはできないけど、あれだけ興味を示しているKを見ていると、まあ食べさせてみてあげたいな、という気にはなる。それで、金曜日におかあさんにもう一度言ったら、「手でもって食べられるようなもの(クラッカーなど)を試してみようかな、と思ってるの」と言っておられたけど、今朝は試したかどうか聞きそびれてしまった。

というわけで、今日もKはテーブルフードの子ども達を見ているだけだった。でも、彼女自身がそこに座る日もそう遠くはないだろう(^^)。

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映画「明日へのチケット」Tickets

私がこの映画を好きなのは、ひとつには電車が舞台になっているから(^^)。何故か電車の旅が好きで(父が国鉄の運転士だったせいかもしれない)、海外に行けば機会を見つけては電車に乗っている。この映画は主にイタリアが舞台。私が3年前にイタリアを電車でまわったときは、個室に乗ることが多かった。だいたい一室は6人がけになっていて、同室になった人と話をしたり、押し黙ったまま気まずい雰囲気だったり。まちがえて喫煙室に乗ってしまったこともある。(込んでいたので、気がついても禁煙室に移れなかった。)この映画では、個室でない席が舞台になっていることが多かったが、スイスで乗った電車はこんな感じのが多かった。聞こえてくる会話がドイツ語だったのが、途中からフランス語になったり、と、ひとつの国のなかでいろんな言葉が話されているんだなぁと思ったものだ。この映画にもいろんな国の人が乗り合わせ、いろんな言葉が話されていて、国際列車なんだなぁと感じさせられる。見ているうちに、私も電車の旅の楽しい気分を思い出し、話にひきこまれていった。

この映画は、イタリア人エルマンノ・オルミ、イラン人アッバス・キアロスタミ、イギリス人ケン・ローチの3人の監督が共同制作している。3つのエピソードはそれぞれ独立しているが、つながっていて、同じ時間軸で話がすすんでいく。

私が一番好きなのは、第三話ケン・ローチ監督のものだった。自分達のひいきのサッカーチームがローマで試合をすることになり、その応援のためにスコットランドから出てきた青年3人組。サッカーのユニフォームを着ている少年に親近感を感じて声をかけ、彼がアルバニア出身であることを知る。軽い気持ちでサンドイッチを分けてやり、試合のチケットを見せびらかして楽しいひと時を過ごす。その彼がサンドイッチを席に持ち帰って家族で分けている姿を見て、残っていたサンドイッチをその家族にあげてしまう。その後、車掌が検札に来て、ひとりのチケットがなくなっていることがわかる。3人のうちのひとりが、あのアルバニアの少年が盗ったのではないかと言い出して...

難民に同情をしても、自分自身、そのチケットをもう一枚買うほどの余裕はない。自分達には手に負えない問題だ。...「難民問題」というように大上段にふりかぶるのではなくて、普通の人の感覚で描かれているので感情移入がしやすい。最後はちょっとびっくりさせられて...楽観的だと言われるかもしれないが、とても気持ちのいい終わり方だった(^^)。

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規則

うちの保育園では、子どもが何か薬とかを使わなければいけない場合、医者の処方箋を貼った薬でなければ受け付けないことになっている。さらに、保育園の規定の用紙に医者のサインが必要で、親は毎日その用紙にサインして、「今日は薬を使ってください」という意思表示をする必要がある。一般の薬屋さんで買える薬(OTC medicine)はそのままでは使えない。

赤ちゃんに湿疹があったり乾燥肌だったりで、継続的にクリームを使ってケアをしたいという親は、一般の薬屋さんでクリームを買って保育園の用紙とともに病院に持っていき、医者に処方箋を書いてもらってそのクリームに貼り、用紙に医者のサインをもらう。

これが原則なのだが、管理職が変わるたびに運用の仕方が若干違ってきたりする。0歳児後半クラスに代わって、ある子どものおむつかぶれがひどいので、「何かクリームをつけたほうがいいですよ」と保育者が勧めていたとき、ちょうど0歳児前半クラスの保育者Mがそこにいた。彼女が「この用紙にサインすればいいのよ」と持ってきてくれたのは、医者のサインの必要がないもので、「私は自分の子どもにこのクリーム(名前を記入)を使うことを許可します サイン 日付」というだけのもの。私が3週間の夏休みをとっているあいだに管理職が変わったので、今、クリームならこれだけでいいことになったのか、と思ってそれを使っていたら、副園長先生がその実態を知り、「おむつかぶれや湿疹の治療のためのクリームには必ず医者のサインが必要」で、その用紙ではだめだと言う。

おむつかぶれがひどいと、子どものお尻は真っ赤になり、血がにじんでいることもあったりして本当に痛々しい。2週間ほど前、下痢が流行り、うちのクラスでもひどい下痢でおむつかぶれになってしまった子が何人かいた。痛いので、おむつがえをいやがり、おむつを変える台に載せられただけで泣き出してしまったりする。同室の保育者Tは、もうこのクラスに2年くらいいるので、おむつかぶれによく効くクリームを知っていて、親の同意を待たずに勝手に使ったりしていた。

親の同意を待たずに勝手に薬(クリーム)を使うことは問題だと思うのだが(それでもTの気持ちはわかる)、いったん親が同意書を出したなら、それで十分なのでは、と思う。働く親にとって、病院に行って医者のサインをもらうことはなかなか手間だったりする。ひとり親家庭も多いから、なおさらだ。おむつかぶれはすぐに対処する必要があるので、2、3日待って、なんていうわけにはいかない。

でも副園長先生は「おむつかぶれの治療は親の責任なのだから、そのくらいのことはすべきだ」と言う。そこでMが、「実際、親が病院に行けなくてサインをもらえなかったらどうするのか」と訊くと、「何もしない」。「それじゃあ、痛がっている子どもをほおっておくのか」とさらにMが尋ねると、「それは親の責任だから」...

Mは、「子どもが苦しんでいるのを見るのは保育者で、子どもの苦しみは保育者の苦しみだ。原則はわかったけど、子どもが苦しんでいるのをほおってはおけないから、こっそりおむつかぶれのクリームを使う」と言う。

私は規則に反することをするのは気がすすまないが、MやTのしていることが間違っているとは思えない。「おむつかぶれの治療に責任を持つべきなのは親だ」という副園長先生の説もわからなくはない。クリームを保育園に置いておき、こちらが使うのにまかせる、というふうにすることで、「こんなひどいおむつかぶれになったのは保育園できちんとクリームを使わなかったから」なんて言って訴訟を起こす親だっているかもしれない、と言うのだ。それでも。私も親の同意があれば、規則がどうであれ、クリームを使うだろうなぁ...

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ガザへの国際介入を!

先週、パレスチナ子どものキャンペーンから、「ガザの犠牲をこれ以上増やさないため、国際社会は介入を」という声明を出した、というメールが届いた。

11月1日からイスラエル軍は、パレスチナのガザ地区北部ベイトハヌーン一帯で、『秋の雲』という軍事作戦を展開しています。その結果、11月6日までに50人以上のパレスチナ人(女性と子どもが多く含まれる)が犠牲となり、負傷者は350人以上に達しました。11月7日にいったんイスラエル軍はベイトハヌーンから撤退したものの攻撃は続き、11月7日に8人が死亡、11月8日未明には戦車の砲撃によって民家4軒が破壊され、4歳から70歳までの19人が死亡、55人が負傷と報じられています。
という文で始まる声明は、昨年夏にイスラエルがガザ地区から一方的撤退をした後、現実には、ガザ地区全体の包囲封鎖はかえって強められた実態についてふれている。
7月8月と続いたイスラエルのレバノン侵攻による破壊と犠牲は記憶に新しいところですが、その影で、ガザへの軍事侵攻と封鎖はあまり注目されないまま現在も継続し、犠牲者が日々増え続けています。ガザでは、あまりにもひどい状況と国際社会の無関心さに人々の怒りは行き場をなくし、NGOなど外国人に対する敵愾心さえ生まれてきています。
私の胸にささったのは、「国際社会の無関心さに人々の怒りは行き場をなくし」という文だった。なんとも不合理な攻撃を受けてとても怖い思いをしているのに、国際社会はどうして何もしてくれないのか。北朝鮮が核実験をしたら、誰一人犠牲が出ていなくてもあんなに大騒ぎをするのに、ガザでこんなにたくさんの人が毎日殺されていて、どうしてそれは見過ごされてしまうのだろうか。映画「ホテルルワンダ」で、「虐殺の模様が世界に放映されれば、世界の人たちが助けにきてくれるだろう」と期待する主人公に対し、「人々はこの報道を見て、『まあひどい』と言ったあと、普通にご飯を食べ続けますよ」と言ったジャーナリストの言葉が思い出される。

"P-navi info" の「犠牲者の割合を比較すること」という記事によれば、

アルアクサー・インティファーダ開始(2000.9.29)以来、これまでで平均した犠牲者数の比率はパレスチナ人3.9人に対してイスラエル人1。 (中略) ところがハマスが選挙で勝った2006年1月になってからは、パレスチナ人26人に対してイスラエル人1人。さらに「夏の雨」作戦が始まった7月からとなると、パレスチナ人76人に対しイスラエル人1人の割合となっている(実数ではパレスチナ人381人に対し、イスラエル人5人の犠牲者)。

のだという。...

しかし、このような圧倒的な犠牲者の差、また武器などの差に関係なく、(特に米国では)パレスチナ側がイスラエルを脅かす存在として捉えられている...
その事実を知っても、すぐに何かできるというわけじゃない。私もやっぱり普通にご飯を食べているひとりだし、毎日を楽しく過ごしたいと思っている。でも、こんな事実が見過ごされているのはやっぱりヘンだ。スクールバスにさえミサイルが当たってしまったというガザ。ガザの人々を苦しめているのが国際社会の無関心であるなら、少なくとも関心を持っていたい。多くの人に関心をもってほしい。関心を持っている人がいるのだとガザの人たちに知ってほしい。

国連安保理でのイスラエル非難決議は、またアメリカの拒否権発動により採決されなかった。ただ、こんな実態を知る人が増えてきたら、多分、アメリカも今のような態度をとり続けることはできなくなるんじゃないかと思うのだ...

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映画「父親たちの星条旗」Flags of our fathers

第二次世界大戦中、硫黄島を攻めた米軍と守ろうとした日本軍との壮絶な戦い。簡単にケリがつくだろうと考えていた米軍は、上陸早々、摺鉢山のてっぺんに星条旗を立てた。それを見たある高級軍人がぜひあの旗をほしいと言い出したために、代わりの旗を再掲。そのときに撮られた写真(ピューリッツァー賞を受賞したらしい)が、アメリカで国民の戦意高揚のために使われた。

山頂に国旗を立てるという行為は勝利を思わせる。しかし、実際は、この後35日間の死闘が繰り広げられた。国民に国債を買わせて戦争の資金を集めるために、この写真が使えると考えた当局は、写真に映っていた6人のうち生き残った3人を英雄にしたてあげて全国を行脚する。しかし、3人は、この写真の無意味さを知っており、この戦いで命を落とした仲間たちのことを思うと、英雄扱いされてお祭り騒ぎに参加することに違和感を覚える...

戦闘シーンはかなり生々しい。これを見たら戦争はやっぱりいやだと思う。そして国民にはそんな姿は知らされない。アメリカ軍が国旗を掲げる、勝利の晴れやかなイメージだけが伝えられるのだ。この映画はうちの基地では上映されないだろう。軍人の家族にとっては見るのがつらい絵だと思う...

3人の「英雄」のうちひとりはインディアンだった。この当時の人々のインディアンへの偏見も描かれている。そういえば黒人がいないなぁと思っていたら、第二次世界大戦では戦争のかなり末期にヨーロッパでごく少数の人が参加したのを除いては、黒人は戦闘部隊に参加するのを認められなかったのだそうだ。

知らされない戦争の現実とウソでぬりかためられた戦争のイメージ。その構造は今も結局変わっていないのでは...というよりむしろ、よりいっそう慎重に選別された情報のみが国民に伝えられているのだろう。

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ハンドサイン

Oksofaしばらく前にうちの保育園の受付にお目見えしたソファ。私はこれを見ると、どうも「金」って言われている気がしてしまい気になっていたのだけど、先日、受付の女性に、「この手のポーズって何か意味があるの?」と聞いてみた。「"オーケー"よ」と言われて納得(^^;)。ハンドサインとかジェスチャーとかボディランゲージとか、各国共通のものも多そうだけど、同じサインの意味するところが違うものもありそうだな。

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漢字屋

しばらく前、駅の本屋で『「危ない」世界の歩き方』という本を見つけ、過激なタイトルに惹かれてつい買ってしまった(^^;)。著者は、世界で危ないといわれている地域もいろいろな方法を駆使して楽しんでいる、という女性。私自身は著者とあんまり共通するものを感じなかったのだけど、ひとつおもしろいと思ったのが、現地でお金を作る方法としてブラジルで「漢字屋」をやったという話。筆ペンとスケッチブックを用意。人の集まるところで、「あなたの名前を漢字で書きます」という看板を日本語とポルトガル語と英語で書き、座っているだけ。料金は100円程度で、1日やっていると10人くらいくるからそれだけでなんとか生活できるという。外国でそんなふうにしてお金を稼ぐことが合法なのかどうか知らないけど(^^;)、切羽詰った状況になったとしたら、そんなのもありかな?

確かに漢字に魅力を感じる外国人は多いようだ。うちの職場ではタトゥーをしている人が結構いるが、日本語で自分の名前を彫ってもらっていたり、「愛」なんていうのはよくあるパターン。先日は、「"infamous" というのは日本語で何と書くのか」と尋ねられた。タトゥーにしたいんだという。「悪名高い」っていうのを彫っても、ひらがなが入るとなんだかしまらないなぁと思い、「"bad girl" 『悪女』のほうがかっこいいんじゃない?」と言ったのだけど、彼女はやっぱり "infamous" の意味で彫りたいと言う。ひらがなを入れずに「悪名高」だけではヘンか、と訊かれ、それはやっぱりヘンだな、と思い、「悪名高き」かなぁ、と書いた。

で、その次の月曜、「悪名高き」と彫った上腕を自慢げに同僚に見せている彼女を見て、ちょっとフクザツな気分になってしまった(^^;)...

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経験と想像力

毎日新聞日曜版に心療内科医の海原純子さんが「心のサプリ」というコラムを連載されている。今日は「体験より共感力」と題して、「『同じ体験をした人でなければつらい気持ちが理解できない』ということはない」ということを書いておられる。

「何か手伝いたい」と申し出た人に「あなたに私の気持ちなんてわかるわけないわ。経験してないんだから」と言われてしまった人。確かにつらい経験をした人の思いを他人が完全に理解することは難しく、不可能かもしれないけど、わかろうとする気持ちと相手を思いやる共感力のある人にはかなりの部分理解できるのではないか、と海原さんは言う。

先日、「ワールドトレードセンター」 を見たときに、「ニュースで9・11事件の報道を聞いていても、私には現場の状況は想像できていなかったなぁ」と思った。数日後、「パレスチナ子どものキャンペーン」の会報誌「サラーム」が届いて、想像力ということについて考えてしまった。

今年の夏、レバノンで戦闘が始まったとき、日本にいるレバノン人留学生が心配して母親に電話をした。そのとき、母親は爆撃などの様子を話した後、「イスラエルでも普通の人が犠牲になっていて大変なんだよ」と言ったそうだ。その話を聞いたキャンペーンのスタッフがこう書いている。

爆撃下にありながら、自分達を攻撃している「敵」の市民の窮状に想像力を働かせることのできる人がいることに驚き、感銘を受けました。 「アラブやイスラム世界には民主主義は無く、市民社会を育てなければならない」などと欧米の政治家やメディアは臆面なく平気で言い、日本でもそう信じている人が多いようですが、本当にそうだろうかと思います。 今年は、レバノンでも、そしてガザでも爆撃や侵攻、破壊と殺戮が続き、停電や断水、物資の封鎖など、日常生活がズタズタにされました。暑く長い夏休み、子ども達はどこにも行けず、冷たいものさえ食べられず、怖い思いをしたまま過ごしたのです。(中略) そうした状況で生活している人たちに、私達の社会は想像力を働かせることができるのかどうか、市民の力を問われているのは豊かな先進国のほうではないでしょうか?

爆撃下にありながら、敵の市民の窮状を思いやることのできる人。自分達がつらい思いをしているからこそ、他の人のつらい状態にも思いをはせることができるのだろう。そういう意味で、やはり体験が人の想像力を豊かにするという面はあるし、つらい体験をした人は人間的に深い人が多いのかもしれない。でも、実際に経験しなくても、経験した人の話を聞いたり、映像を見たりすることである程度想像することはできる。

会報のなかで、レバノンの難民キャンプにいる3人の子どもたちが爆撃の様子を語っていて、それは胸に痛かった。キャンプで産気づいた母親を、爆撃のひどいベイルートの真ん中にある病院まで行く決意をした父親の話など...( 「パレスチナ子どものキャンペーン」のホームページ に「子ども達が語るレバノン戦争」という記事が設けられているのですが、現在、その記事だけ工事中になっています(--;)。近日中に読めるようになるといいのですが)ニュースを聞くだけでは具体的にイメージできなかった痛みが少しはわかったと思う。

菅原和孝さんがその著書「フィールドワークへの挑戦」 のなかで、「生き方としてのフィールドワークを駆動する唯一無二のエンジンは、他者に対するいきいきとした想像力である。」と書かれている。さらに、「他者への想像力を養うもっとも確実な方法は、つねに大量の小説を読み続けることである。」とも書かれている。

想像力を鍛えるのは、豊かな現実の体験、本や映画、そして結局、他者への関心なのだろう。他者への関心があるから、その人の話を聞こうとする。他者への関心、想像力を持てる人でありたいと思う。

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本「学び方を学ばせるイギリス式ゆとりの教育」by 宮北恵子

著者は日本人のご主人とともにイギリスに移り住んでそこで3人の子どもを生み育てた人。子ども達を育てるなかで感じたイギリスの教育の特色について、日本と比較しながら書いておられる。

いいなぁと思ったのは「ギャップ・イヤー」とか「サンドイッチ・イヤー」という制度。
「ギャップイヤー」とは、大学入学が決定した後、高校からそのまま大学に進むのではなく、一年間休みをとって大学入学を遅らせるシステム。強制ではないけれど、多くの大学で奨励しているそうで、たくさんの生徒達がこの一年間をいろいろな計画をして過ごすそうだ。学費を準備するために働く者もいれば、海外旅行へ出かける者、英語の先生として海外へ行く者など。著者の娘さんは半年間は保険会社でアルバイトをして資金を作り、あと半年で、日本語の勉強のため日本へ行ったそうだ。

「サンドイッチ・イヤー」(あるいはワーク・プレースメント・イヤー)というのは、大学3年のときに、社会人実体験をするチャンスが与えられるのだそうだ。自分の学部に関連のある職業を体験するもので、これも学生の希望によるもののようだ。

大学入学前に1年間の自由な時間をもてたり、在学中に低賃金でも自分の希望する業界で働くチャンスが得られるというのは(必ずしも簡単に職が見つかるわけではないようだが)とてもいい制度だと思う。日本ではニートとかフリーターに冷たい目が向けられがちだけど、高校時代に進みたい学部をはっきり決めて4年間そこで学習してそれに関連した仕事に就いて満足できる人はいったいどれほどいるのだろうか。自分の進路を見直してみたり、違うことをしてみたりする時間は決してその後の人生でムダになることはないだろうと思う。

また、イギリスには、"Life begins at forty." (人生は40歳から)という言葉があるそうだ。子育てが一段落して時間のできた人たちは、どんどん学校に出かけて学んだり、積極的にいろんなことにチャレンジしているという。それも素敵だなと思う。

著者はイギリスの水が性にあったようで、イギリスの教育に肯定的だ。読んでいて、ふうん、いいなぁと思うことは多かった。ただ、アマゾンの書評を読んでいると、イギリスに住んでいても同じように感じていない人もいるようだ。著者はおそらく生活にゆとりのある階級の方のようで、私立学校に子どもを通わせたり習い事をさせていたけれど、たとえばそこまでのゆとりのない人たちだとまた違う感想があるのかもしれない。とはいえ、著者の経験は読んでいて楽しいものだった。

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宮北 恵子

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