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映画「ファーストフード・ネイション」

「いのちの食べ方」は、食を取り巻く現状を音楽も解説も加えず淡々と描いた作品だったけど、これは「ファーストフードが世界を食いつくす」という原作をもとにしたフィクション。で、やっぱりこっちのほうがおもしろい。

ミッキーズという架空のハンバーガーチェーン。「商品に大腸菌が混じっている」という検査報告を受けて、ドンはコロラドにある食肉加工場への調査を命じられる。視察したところ、工場内は清潔で問題がないように見えたが、次第に工場の実態が明らかになっていく。

牛肉を食べるというのは牛を殺すということなんだ。これは何もファーストフードに限ったことじゃないから、牛の屠殺を行っている場面でグロテスクさを強調するのはちょっとどうなのかな、とは思う。ただ、肉を食べるとはそういうことなんだ、と意識しておく必要はあるのかもしれないけど。

牛の屠殺はほとんどの人にとって、すすんでやりたい仕事ではないだろう。日本でも、かつては、いわゆる賎民と言われる人たちがその仕事を担っていた。しかし、内臓の処理などには熟練した技術が必要で、そのことに関してはプライドがあったに違いない。ところが、ファーストフードチェーンとなると、そういう仕事も素人が担当している...

人のやりたがらない仕事を引き受けるのは、仕事を選べない人たちだ。メキシコからの不法移民の人たちは、とにかく生活の糧を稼がなければならない。違法滞在なので公式の保護を求めることはできない。というわけで危険で低賃金の労働に甘んずることになる。

不法移民の生活についても感じるところが大いにあったけど、儲け第一の企業姿勢を批判する高校生グループの存在がまたおもしろかった。

(以下完全ネタバレ)

機械の洗浄を行っていて突然機械に巻き込まれ大怪我をした不法移民の男性に対し、会社幹部は型どおりの見舞いの言葉を述べた後、「彼はドラッグをやっていた。それが事故の原因だ」と決め付ける。ここは「ひどい」と思ってしまった...そして、そんなこともありそうだなぁと思えてしまう。

食肉加工処理場の問題点を浮き彫りにするために、牧場で買われている牛たちを逃がすことを計画した高校生たち。牛が囲われている柵をこわし、牛たちに「さあ、出て行きなさい」と促すが、牛たちは動こうとしない。飼いならされてしまった牛は、もう自然の感覚を取り戻すことはないのか...これにも涙が出てきてしまった。

ファーストフードに対してネガティブなイメージを持っている人は少なくないと思うけど、でもやっぱりなくなることはないだろう。少なくとも、働いている人が賃金や待遇面で正当に評価されるようになってほしい...

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映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

じゃりんこさん、完全に脱線です。 「牛たちが動こうとしない」というところですが、米国の屠殺場の過半数を一人で設計したTemple Grandinが「自然はもっと過酷だ」と言っていたのが印象に残っています。 動物写真にあるように生きながら喰われますから…。 彼女は牛が怖がらないような、安心して?死ねるような屠殺場のデザインをすることで有名です。

Temple Grandinは自閉症で動物科学の教員になったという女性なのですが、「レナードの朝(Awakenings)」の原作を書いた精神科医Oliver Sacksの本に興味を持って読んでいるうちに、"An Anthropologist on Mars"(彼女が自分のことをそう表現したのです。人のいない火星で人類学を研究しているような感じ)のモデルになったTemple Grandinのことを知りました。 彼女の書いた"Thinking in Pictures and Other Reports from My Life with Autism"も読みましたが、タイトル通り、彼女はビデオを観るように映像で考えるのだそうです。(私もそうかも知れないと思ってますが…。) そして彼女の描く設計図にはまったく修正がないとか。 頭の中で完璧に出来上がっていて、それを写すだけだからです。

ちなみにケニアなどでは、屠殺をするのはモスレムの人の仕事です。 お祈りをして「大事に」殺します。 網野善彦ではありませんが、「清め」と「穢れ」は紙一重で、本来は聖なる仕事なのかも知れません。

投稿: axbxcx | 2008.03.09 00:17

axbxcx さん、

確かに自然はもっと過酷なのかもしれません。生き物を食べるために殺すことは罪かというと、結局、神様(?)は生き物をそのように創ったんだものなぁ、と思います。

ムスリムの習慣として、今も生贄を供える、ということはありますよね。生贄を供えるために動物を殺すことは聖なる行為であり、不法移民の人たちが屠殺を担うようなアメリカの状況とはまた違うのでしょうね。

今日、友人と話していたんですが、物事を俯瞰的に見られる人と自分の視点からしか見られない人がいるよね、と。概して男性は前者で女性は後者じゃないかな...で、私も自分の視点からしか見られないほうだなぁと思います。Temple Grandin という人は女性だけど、物事を全体的に見ることが得意だったんですね。

投稿: じゃりんこ | 2008.03.09 01:01

じゃりんこさん、一般論としてはそのとおりかも知れません。(民族に関してもそういう違いは明らかにあると思いますが、それでレッテルを貼ると大変なことになります。) うちでもそういう話をすることがあるんですが、一番よくわかるのは場所とか道の認識の仕方です。 妻は点そして線で認識しているのに対して、私は面で認識しているのです。 まさにbird's-eyeです。 だから道に迷っても、どの区画にいるか、それがダメでもどの大通りとどの大通りの間にいるか、どの川とどの川の間にいるのかがわかります。 ところが妻はこの角を曲がる、この通りを行くというように認識しているので、万一道に迷ったときに対応するのが難しいのです。

実は写真が面白いのも、撮った人が何を見ているかがよくわかるからではないかと思っています。 ケニアや周防大島・尾道に一緒に行った友人は「私の撮る写真の反対側には私の姿が見える」と言って笑っています。

それから網野善彦の話を持ち出したのは、じゃりんこさんがおっしゃる情況がアメリカだけではなく日本にもあると思ったからです。 歴史的には動物を扱う東(武士)よりも西(公家)の方がエライという価値観があったのでしょう。 網野によれば、それを打ち破ったのが御成敗式目ということになります。 御成敗式目の起請文は本当に素晴しいと思います。

投稿: axbxcx | 2008.03.09 11:23

axbxcx さん、

実は、物事を俯瞰的に云々という話は、渋谷から恵比寿に向かって歩きながら、今ここで自分の家の方角がわかるか、という話からだったんです。私はそんなこと考えたこともありません(^^;)。どうして点と線で認識する人と面で認識する人がいるのでしょうね。

写真についてaxbxcx さんが書かれていることを読んで「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」という映画タイトルを思い出しました。ドキュメンタリーは最近いまいち楽しめないことが多かったので もういいや、と思っていたんですが、DVDが出たら見てみようかな、と思います。

御成敗式目をそんなふうにとらえたことはありません。私は日本の歴史ももっと勉強しないといけないようです。

投稿: じゃりんこ | 2008.03.09 11:44

じゃりんこさん、宮本常一のお父さんの「父の十カ条」を思い出します。 「村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ。そして方向を知り、目立つものをみよ…」 Google Earthや航空写真はそういう意味でも面白くて仕方ありません。 ただGoogleの航空写真で、住所を入れると自分の車まで識別できるというのは怖いですが…。

ところで大事なことを忘れていました。 Temple Grandinは「自分は映像で考える、だから牛の目で設計ができる」とも書いていました。 動物も種類によって周りが見えないと落ち着かなかったり、同種の動物と体が接していると安心したり…といろいろ特徴があるそうです。

他人の身になって考えることができるというのはもう一つのとても大きな資質なんでしょうね。

投稿: axbxcx | 2008.03.09 13:23

axbxcx さん、

普通、人はミクロ的なものの見方をするものだから、それを補うために高いところへ上れ、ということだったんでしょうか。そうやって自分の位置を確認することを習慣づけておくのはいいのかもしれません。

>自分は映像で考える、だから牛の目で設計ができる

これは、牛の目から見た映像を考えられる、ということですかね。屠殺場の設計を牛の立場にたってする、というのはなかなか考えられないですよね。人間にとってどれだけ都合がいいか、清潔に効率的に仕事ができるかっていうことが最重要視されるような気がするんですが、アメリカの屠殺場の半分以上を設計したということですから、企業(とは限らないのか)の側も彼女の考え方を受け入れたわけですね。

他人の立場にたって考えることは意識(努力)すればたいていの人ができることだと思うのですが、意識(努力)するかどうか、というのはあるかもしれません。意識しなくてもできる人もいるのでしょうね。

投稿: じゃりんこ | 2008.03.09 20:24

じゃりんこさん、自分自身の価値観や宗教を前提にしてしか考えられないのに他人の立場で考えているつもりだったり、自分の感情で同情することを他人の身になっていると思い込んでいることが多いのではないかと…。 自戒を込めてですが…。

Temple Grandinを読んで思ったのは、映像で考えるということは少なくとも前者(価値観・宗教のようなもの)を超越しているだろうということ、そして後者についても表面的な感情ではない部分(それを動物的と言ってよいのかどうかわかりませんが)で感じることができるのではないかということでした。

投稿: axbxcx | 2008.03.10 08:06

axbxcx さん、

うーん、結構痛いです(^^;)。
何度か同じような話をしている気がしますが、価値観はそんなに簡単に変えられないだろうと思います。譲れない価値観というのはあり、それでも相手の立場に立とうとし、相手をわかろうと努力することはできるのだろうと思います。完全にわかることはできないのかもしれませんが。

映像で考えるというのがどういうことなのかもよくわかりません。これが映画なら、私がTemple女史になってそれがどういうことか体験できるのでしょうけど(笑)。

投稿: じゃりんこ | 2008.03.10 17:47

じゃりんこさん、自戒を込めてと書いたように、それが途上国との関わり方の歴史あるいは変化そのものですから…。 「自分たちの価値観の押し付けや憐れみ」からの脱却とでも言うか…。 よく言われることですが、「変わるのは私たち」だと思っています。

投稿: axbxcx | 2008.03.11 07:54

axbxcx さん、

なるほど...そうですね。映画なんかでそういう場面を見たらいやだなぁと思うのに、自分はきっとそういうことをやっていて気付いていないのでしょうね...確かに意識して他人の身になって考えてみることが必要なようです。

投稿: じゃりんこ | 2008.03.11 16:49

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