文化・芸術

ヴァンジ彫刻庭園美術館

行ったのはもう1カ月も前のことで、とてもおもしろかったのだけど、ブログに書く時期を逃してしまっていた。でも、この間の日曜日、図書館で、美術手帖 2010年 08月号 [雑誌]を目にして、やっぱりちょっとだけでも書いておこう、という気になった。「アートの旅」と題されたその号の表紙にはヴァンジ彫刻庭園美術館で見たユニークな彫刻がひとつ写っていたのだ。

ヴァンジ彫刻庭園美術館は静岡県のクレマチスの丘というところにある。実はこの彫刻美術館を目的に行ったわけではなく、たまたま聞きたかったコンサートがここで行われていて、夕方の開催時刻まで自由に見学してもいいですよ、ということだったのでほんとに「ついで」の見学だった。ヴァンジというイタリア人彫刻家の名前も知らなかったし、特に何も期待していなかったのに、予想外のおもしろさにすっかり魅せられてしまった。

Vangi庭園美術館というだけあって、屋外に様々な彫刻が置かれている。最初は、なんかわけわからないオブジェだなぁ、なんて思っていたのだけど、人の彫刻は表情が豊かだったり、素材のなかから飛び出してきそうなリアル感があったり。屋外だけでなく、屋内にもたくさんの作品があり、素材も、大理石、ブロンズ、石、石膏、合金、など様々。で、いかにも石の中に隠れていたのを掘り出しましたよ、みたいに思える作品があったり。彫刻って、立体だから、ぐるっと全体が見られるのもおもしろい。絵にはない楽しみだ。

Vangi2芸術作品を見るときって、つい、大家の名前にまどわされるところがあるというか、あるいは有名な作品はそれだけですごいと思ってしまうところがあるけど、ここの作品は、そんな名前の力を借りなくても、見ていて本当に楽しかった。ヴァンジという人については、日本語のウィキペディアもなく、英語のウィキペディアでも簡単な説明があるだけで、外部リンクが張られているのは唯一、日本のヴァンジ彫刻庭園美術館のページだ。私には芸術の価値を判断する力量はないし、この人がどれほど注目されている人物なのかもわからないが、全体的に遊び心の感じられる作風が私好み^^。

庭園の彫刻の配置の仕方にもおもしろいものがあって、この階段を降りたら何かあるのかな...なんて思ったら...(^^)だったり。

というわけで、まさに棚からぼたもち、思いがけぬ儲けものの美術館だった^^。

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さかさまの福

映画「千年の祈り」のなかで、「福」という字がさかさまに書かれた扇型の飾りを父親が娘の家のドアにかけるシーンがあった。福がさかさま...っていうことは幸福じゃない、という意味?母親が亡くなった、という話が出ていたから喪中を意味するのか...と思ったけど、そうじゃなかった。

「 福了 」(福の字がさかさまになった)と、「 福了 」(福がやってきた)は、どちらも発音がフー・タオ・ラで同じなので、福の字をさかさまにすることで、福がやってきた、あるいはやってきてほしい、という気持ちを表したものなんだそう。(参考にしたサイトはここなど)

福をさかさまにすると縁起が悪そうな気がするけど、中国では逆なんだな。

それにしても、アメリカ人には、あのシーンが何を意味するのかまったくわからないだろう...と思ったけど、日本人の場合、「福」の意味を知ってるから混乱するのであって、福の意味を知らないアメリカ人にすれば、見た目なんとなくめでたそうな飾りだから、かえって素直に通じるのかもしれない。

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10000匹のチャリティベア

タイで、エイズに感染した孤児たちの生活施設を運営している「バーンロムサイ」という団体がある。その子ども達のことをたくさんの人に知ってもらうため、また資金集めのため、毎年日本でアンダーザツリー展というのが開かれているのだが、今年は1万匹のチャリティベアを展示するということだった。

私はそれにはたいして興味が惹かれなかったのだけど、今日は、映画「闇の子供たち」の監督の阪本順治さんとプロデューサーの椎井友紀子さん、バーンロムサイ代表名取美和さんのトークショーがあるということで、それを聞きたくて出かけて行った。

10000bearsでも、行ってみると、まず、1万匹のチャリティベアに圧倒された。天井からつるされた釣り糸にかかっているクマちゃんたちは、ひとつひとつ違う服を着ているのだ。これらは、タイのHIV感染者の人たちや山岳民族の人たちによって縫われ、綿をつめられたあと、日本のボランティアの人やタイの友人たちの手によって服を着せたり飾り付けをされたものだそうだ。大きさも色もさまざま、着ている服も、ドレッシーなものからカジュアルなものまで、スーパーマンやらサンタクロースやら、実にバラエティ豊かで、本当に見ていて楽しい。

で、トークショーがまた興味深いものだった。映画に描かれているような幼児買春の実態や、映画化にあたっての苦労などが話され、この映画に関わった人たちは大変な覚悟をもって作ったのだなぁということがわかった。でも、映画に描かれていた臓器売買の話は出なかったので、「こういうことが実際にあるのか」と質問させてもらった。すると「日本人が実際に臓器売買をしたという例はない。その点はフィクションだ。ただ、現実に、タイに限らず臓器売買は行われている。たとえばスマトラ沖地震などの災害が起きたときには、子どもたちが連れ去られ、児童買春や臓器売買が行われた」のだという。また、日本人が臓器売買に関わっているような描き方については、原作にあるのでそれを生かしたかったということと、臓器移植のために日本人が寄付金を募って海外で移植手術を受けていることが美談として語られているけど、そのことの問題点などが話された。ラストの場面についての質問も出ていて(監督は「自分の映画の解説をするのは切ないものがある」と言っておられた(^^;)けど)、私も、ああそういうことだったの、と納得。

10000匹のチャリティベア展」は六本木にて次の日曜12月21日まで(11:00-19:00)開催中。クマ一匹につき1000円で販売していて、これが施設の運営資金にあてられる。HIV は、薬でおさえることができるので、バーンロムサイの子どもたちも元気に育っているのだ。とにかく10000匹のクマちゃんたちは本当にすごいので、近くの方は、行ってみると見るだけでも楽しめると思う。
ちなみに私が買ったのは次のクマちゃんたち。保育園の子どもたちに自慢しようっと(^^)。
Bears

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中国の成人

中国の方と結婚して中国暮らしがもう長い友人が里帰り中で、今日、夕食のときにワインを持ってきてくれたので、つい、先日の「アメリカの成人、日本の成人」のことを思い出して、「中国では何歳からお酒が飲めるの?」と訊いてみた。

友「知らないわ。そんな決まりはないんじゃない?」
じゃりんこ「ええ?そうなの?じゃあ、何歳でもお酒を飲んでいいわけ?」
友「うん...何歳からっていうのは聞いたことないなぁ」
じゃ「じゃぁ、高校生がお酒飲んでパーティしてもいいんだ?」
友「あ、それはだめだと思う。学生はだめだと思う」
じゃ「大学生は?」
友「大学生は...うーん、大学生はいろいろ飲む機会があるよね」

彼女は19歳と16歳の子どもを持つ母親なんだけど、あんまりそういうことに頓着していないらしい。

じゃ「じゃあ、何歳から成人と考えられているわけ?」
友「それは...19歳だと思うわ」
じゃ「選挙権は?」

この回答に私はびっくりしたんだけど、考えてみればまあ当然か。

続きを読む "中国の成人"

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「ありがとう」を言わないわけは

しばらく前、tabe さんが日記にこんなことを書いておられた。

ちょっと込んだ電車の中で。中国人の母親が、むずがる子どもの相手をしているのを見かねて、ある男性が席をゆずった。するとその母親は当たり前のようにどかっと座って子どもを膝に乗せ、男性に対する感謝の気持ちを示すということがまったくなかったらしい。まわりの日本人の雰囲気は硬くなり、「中国人はなんて礼儀知らずなんだ...」という空気が流れた。

tabe さんも「会釈くらいすればいいのに」と思って、でもそこで、「中国って老人や弱い立場の人に優しくする文化がある。弱者に席を譲るのは当たり前の行為と考えられているからわざわざお礼を言わないのかも」と思ったそうだ。

tabe さんはこれに続けて、韓国での体験とか中国の映画の話を書いておられてとてもおもしろかったので、ミクシィの会員で興味のある方はこちらへどうぞ。(本人の了解済みです)


私もtabe さんの話を聞かなかったら、きっと「失礼な人」と思ってしまっただろう。国や育った環境の違いで考え方の違いがある、と頭ではわかっていても、なかなかふだんの生活でそのことを考えられない。

で、先日、「世界地図がよくわかる本」(by 荻野洋一)というのを読んでいたら、おもしろい記事を見つけた。インド語には日本語の「ありがとう」にあたる言葉がないんだそうだ。

「ダニヤワード」という一語がそれに近い表現とされているそうだが、これは目上の人物が目下にいう「ご苦労だった」というニュアンスが含まれているため、友人同士や見知らぬ人同士が気楽に使うにはふさわしくない。最近のインドの若者の間では、仕方なく英語の「サンキュー」という表現を使っている(中略)。なぜ、インドに「ありがとう」という一語が発達しなかったのか。その理由は、インド独特の身分制度であるカースト制度にのっとった、ギブ・アンド・テイクの精神が関係しているという。この考え方は、物乞いの人たちにも浸透しており、彼らも金を恵んでもらっても「ありがとう」とは決していわない。金という物質的なギブをもらう代わりに、功徳というテイクを与えてあげたという考え方があるのだ。(p.121)

私はインドに行ったことがないし、この著者の書いておられることが本当かどうかを確かめたわけじゃないけど、そういうこともあるのかもしれないなぁと思う。なんでもつい自分の価値観で判断してしまいがちだけど、自分の価値観がすべてじゃないって、機会あるごとに思い出さないといけないんだろうな。

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モディリアーニ展

昨日は、長女の入学式出席のために一日休みを取ったので、入学式の後、モディリアーニ展へ。ネットでブログの感想などを読んでも、特に「すごく混んでいた」というような記述もないし、平日だから大丈夫だろう、と思ったら、そのとおり(^^)。チケットもすぐに買えたし、中もゆったり。絵のまん前に行ってひとつひとつゆっくり見ることができた。

モディリアーニの描く独特の人物画には何故か惹かれるものがある。異様に長い顔、瞳がなくてどこを見ているのかわからないような表情...だったりするのに。何が好きなんだろう。シンプルな線と色合い...かなぁ。

初期の頃の鉛筆でのデッサンなどは、正直、私には高名な画家のものとは思えなかった(^^;)けど、この人がアフリカ美術の影響を受けていたんだ、ということを知って、なるほど、と思った。シンプルな美しさと力強さ。そして、油絵の肖像画が並ぶ部屋に入ると「おおーっ」という感じになる(^^)。モネは風景画が多かったけど、モディリアーニは人を描いた。モディリアーニといえば瞳のない絵を思い浮かべるけど、瞳のある絵も描いていたんだ。すごく写実的、という絵ではないのに、モデルによってその人らしさというようなものが感じられておもしろい。聡明な感じの女性、ちょっと気障な感じの男性、おとなしそうな人、何を考えているのかわからないような人...。

Image043モディリアーニ展の外のロビーでは似顔絵を描いている人がいた。「あなたを3分でモディリアーニ風に」っていう謳い文句で。モディリアーニ風ではなく、希望によりもっと写実的に描く、ということもされていて、見ていると、あっというまにモデルの特徴をとらえた似顔絵ができあがる。鮮やかな筆さばき(ってパステルだけど)にすっかり見とれてしまった。パステル数本でこんなことができるなんてすごいなぁ。

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パルシステムの文化活動

しつこいけど、パルシステムに入ってよかったな、と思うことをもうひとつ。それは平和ビデオの無料貸出。「ナヌムの家」は見たいと思いながら、一般レンタルもしていないし、販売価格はなんと45,000円(上映権付)。このビデオがパルシステムの「平和ビデオ」のリストに入っているのを見たときは「やったー」と叫びたい気持ちだった(^^)。このほかに、「はだしのゲン」「クロがいた夏」「千垂の墓」などのアニメ作品、「ヒバクシャ」「リトルバーズ」などのドキュメント作品など、約50本のビデオ(DVD含む)を1週間無料で借りることができる。

去年、キューバに行くきっかけとなった映画「サルー!ハバナ」も、もともとパルシステムで上映会が企画されていて知ったのだ。上映会は平日だったので、仕事を一日休んでまで見に行くのはなぁ、と思ったが、検索して、東京平和映画祭で上映されることを知り、見に行くことができた。映画上映会のほかにも環境に着いての講演会やクッキングクラス、農業体験ツアーなどが企画されていておもしろそう。様々な催しはほとんどが平日なので参加できないことが多いのが残念だけど。

もちろん、パルシステムのほかにも良い生協はあると思う。自分の家で利用するのに便利な生協がどういう方針を持っているのかを確かめたうえで、利用すればいいと思う。

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なじめない慣習

ドイツから帰ってきた友人Aさんの話からもうひとつ。Aさんの友人Bさんはもうドイツに住んで20年くらいになるのだと思うのだけど、なかなかなじめない風習というのはあるそうだ。

たとえば、職場で誰かがコーヒーカップを落として割ってしまった。そのカップは通路に割れたままほおってあって誰も掃除しようとしないので、Bさんが片付けようとすると、「どうして片付けるの」と言われる。部屋の掃除を仕事としている人がいるのだから、それはあなたが片付けるべきではない、その人の仕事をとるべきではない、という考え方らしい。そんなことを言われても、通路に落ちたままのカップはあきらかに通行のじゃまになっているのに、だ。

Aさんは年末年始にドイツに行っていたので、大晦日、新年を迎える頃には、通りのあちこちで花火があがるのを見た。それはそれは盛大なもりあがりだったそうだけど、翌日の通りのゴミもそれだけものすごかったそうだ。みんな花火を楽しむだけ楽しんで片付けることはない。それは片付けるのを仕事としている人がやること、という考えなんだとか。

他国の風習をどうこう言うべきではないとは思うけど、そういうのはやっぱりなじめないだろうなぁと思ってしまう。又聞きの話なので、こういう慣習がどの程度ドイツで一般的なのかまではわからないけど。

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ジブリ美術館

開館当初から行きたいと思っていたジブリ美術館に、ようやく行くことができた(^^)。
Ghibli朝から雨模様で、ちょっとつらいかな、と思ったけど、完全予約制でチケット購入済のため、日時を変更することはできない。まあでも、雨もそれほどひどくはなく、一応、屋上にも上ることができたし、ほとんどは屋内で楽しめるものだから、よかったかな。写真は屋上からの風景。

アニメーション製作の過程が順を追って展示されているのがおもしろかった。「魔女の宅急便」の絵コンテとか。アニメーションの仕組みがわかるような展示とか。大きなネコバスはさわってみたかったな。子どもしか乗れないことになっていて、子どもたちは屋根にのぼって滑り降りたり、とても楽しそうだった。まっくろくろすけもいっぱいいて、そのなかに子どもが埋もれていたりとか(^^)。

展示の量はそれほど多くはないけど、美術館全体のレトロな雰囲気や細部にこだわった造りがいい感じ。月替わりで短編映画を上映していて、今月は「くじらとり」。中川李枝子さん、大村百合子さんコンビ作の「いやいやえん」から採ったお話だとのこと。私は「いやいやえん」を読んだことはないけど、絵を見てすぐに「そらいろのたね」の人だとわかった。保育園が舞台のファンタジーで、とても楽しい話。私の後ろに座った男の子が、お話の世界にすっかりはまって、「あ、海なのにダメじゃん」とか、素直に感想を口に出しているのが可愛かった(^^)。

雨模様でも、みんなキャンセルしないためか、人は結構多い。外国人の姿もちらちら見かけたのは、今日がアメリカの祝日のせいもあるのかな。でも、韓国人や中国人らしい人も何組か見たから、いつでも多いのかもしれない。まあ、わざわざ見に来るほどのもの...だな(^^)。

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多文化共生

多文化子育てネットというところの研修会に行ってきた。テーマは「外国人親子の仲間作り・母語育て・多言語絵本」。

最初、多言語絵本の読み聞かせ活動に関わってこられた石原弘子さんという方の講演があり、それに続いて、実際に日本語と外国語での絵本の読み聞かせ。「ぞうくんのさんぽ」は中国語で、「おおきなかぶ」はイタリア語で、「じゃあじゃあびりびり」はエチオピア語で、それぞれネイティブの人が日本人とペアで読んでくれた。どれも日本語でまず1ページ読んで、続いて外国語で同じ1ページ、という読み方で、ああ、この言葉はこの言語ではこういうふうに言うんだな、ということがなんとなくわかる。

その後、3つの分科会に分かれて話し合い。私は「日本でもう一つの母語を育てる」という分科会に参加した。この分科会には、イタリア人、中国人、エチオピア人(いずれも日本人のご主人と結婚されている)、それに聾の方が3人、そのほか日本人で多文化共生のとりくみをされている方など、いろんな立場の方のが参加されていて、とてもおもしろかった。

とりわけ、「手話はひとつの言語なんだ」と認識したのは大きな収穫だった。聾児の学校で乳幼児担当をされている聾の方がおられて、「赤ちゃんに手話を教えるのはむずかしそうに思えますが」と質問したら、「教えるのではなく、手話で話しかけるのだ」と言われた。私達が日本語や英語で赤ちゃんに話しかけるのと同じく、聾の赤ちゃんには手話で話しかけるのだ。手話はとても豊かな言葉で、顔の表情が副詞の役割をするそうだ。たとえば、「歩く」という手話をしながら、疲れたようすや元気な様子を顔で表す。手話がわかるようになってから、日本語の書き言葉を学ぶ。だから聾の子どもにとって、手話が母語なのだ。以前は口話教育というのが重視されていて、相手の口の動きから言っていることを読み取ったり、自分でも発音することを何度も練習させられていたけれど、やはりそれには限界がある。たとえば、「行きました」「言いました」 「死にました」などの口の形を見分けるのは至難の業だし、「発音が間違っている」と何度も言い直しをさせられても、なかなかわかるものではない。そうではなく、手話という言語でなら自由に会話ができる。手話でなら表現できるけど、日本語ではどう表していいかわからないこともあるそうだ。

聾の方のひとりが「日本語には遠まわしな言い方があるけど、これがわかりにくくて」とおっしゃると、その場にいた外国人の方が全員「そうそう」と強く同意されたのもおもしろかった。たとえば中国の方は日本でアルバイトをした経験があるそうだが、しばらくして、お店の人から「この仕事は○○さんにはむずかしいかもしれませんね」と言われたので、「がんばります」と答えた。するとまた「むずかしいですね」と言われるので「がんばります」と答える。何度かこのやりとりをして、ようやく、相手が自分に「やめてほしい」と思っているのだ、とわかった、と言う。日本人ははっきりと「やめてください」とは言わないのだ。

イタリア人の方は、娘さんに日本語、イタリア語、英語の3か国語で絵本の読み聞かせをされている例を話された。中国人の方は、「アジアの場合、日本より一段低い国、という印象があって、公共の場だと、子どもに中国語で話しかけるのも恥ずかしいし、下手な日本語で話しかけるのも恥ずかしいし、と話せなくなってしまっていた。でも、こういう多言語絵本の取組みのなかで、自分の言葉で絵本をみんなに読んであげることができてそれがすごい自信につながった」と話された。いつも支援を受ける側だったけど、自分にも何かできる、ということが嬉しく、この取組みを通じてお子さんも中国語に興味を持つようになったと言う。

結局、「してあげるーしてもらう」という関係じゃなくて、おたがいの関わりのなかで学んでいけるような関係が作れるといいね、という話になった。イタリア人の方は、地域の児童館で何か活動をしようという話し合いのときに、「ご意見をどうぞ」と言われても日本人はみんな黙っているので、「これは私達の子どものためなんだよ。思ったことを言ったほうがいいよね」と発言して、それからだんだんいろんな意見が出てくるようになったと話された。どの文化が優れていてどの文化が劣っている、というわけじゃないけど、自分とは違った文化を持つ人がいることを知ることで自分が変わるきっかけになることもある。

他にもいろいろおもしろい話が聞けた。そう、違いを知るのはとにかくおもしろい(^^)。

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